What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

『般若灯論』観縁品第一

 

諸々の分別を普く断ち切り、一切の戯論を滅する

〔輪廻的〕生存(bhava)の根を抜き去り、真実の法を巧みに説く

言語の対境ならざる〔もの〕において、善く文字を安立せしめる

悪しき智慧と妄想の心を破る、これらのゆえに〔私は世尊に〕礼拝する。

 

(普斷諸分別  滅一切戲論

能拔除有根  巧說真實法

於非言語境  善安立文字
破惡慧妄心  是故稽首禮)

 

注釈して言う。これらの偈頌はどのような意味か?我が尊き(ārya)師は自ら証得したことに従って…

 

[0051b26] 釋曰。如是等偈。其義云何。我師聖者。如自所證。於深般若波羅蜜中。審驗真理。開顯實義。為斷諸惡邪慧網故。彼惡見者。雖修梵行。以迷惑故。皆成不善。今欲令彼悟解正道。依淨阿含。作此中論。宣通佛語。論所為者。其相云何。謂婆伽婆見彼無明眾生。世間起滅斷常一異來去等諸戲論網稠林所壞。起第一悲。發勇猛慧。於無量億百千俱胝那由他劫。為利益他。捐捨身命。無厭倦心。能擔無量福慧聚擔。鑽般若境界海。斷一切戲論網。非他緣無分別。得一切法真實甘露。於彼趣壽分齊。性處時等。攝受利益。不共一切聲聞緣覺。及諸外道唯為進趣第一乘者。依彼世諦。第一義諦。施設不起等諸名字句。此緣起實說中最勝。我阿闍梨亦於不起等文句。開示如來如實道理。得如實解。生極勇猛。如所通達。讚歎婆伽婆。故造此論。又悲水適心。驗已所解。令彼世間同已得解故出此言。如偈曰。

 

滅することなく、生じることなく、断滅ではなく、常住ではなく、

同一ではなく、別異ではなく、来ることなく、去ることなき、

戯論を止息させる縁起。〔それを〕説いたものは善く寂滅〔した〕。

諸々の説法者の中で最上である彼の世尊に〔私は〕礼拝する。

 

(不滅亦不起  不斷亦不常
非一非種種  不來亦不去
緣起戲論息  說者善滅故
禮彼婆伽婆  諸說中最上)

 

注釈して言う。これらの語句を順次に間断なく理解すれば、これらの議論〔の意味〕を理解するので、初めにこれらの語句の意味を説こう。壊れるので滅である。生じるので生起である。相続の破壊が断滅である。一切時に留まるので常住である。他のものではなく別異でもないので同一である。差別(しゃべつ)*1と別異という意味で不同(=別異)である(nivṛttir iti nirodhaḥ / utpattir ity utpādaḥ / saṃtāna-ucchittir ity ucchedaḥ / sarvakāle sthitir iti nityaḥ / nānyañca na pṛthak ca ity arthād ekārthaḥ / viśeṣo ca pṛthak ca ity arthāt nānārthaḥ)。此方に向かうという意味で来である。彼方に向かうという意味で去である*2

 

(釋曰。彼句義次第。解無間故解此論義。是故初說。如是句義。破壞故滅。出生故起。相續死故斷。一切時住故常。無別不異義故一。差別異義故種種。向此義故來。向彼義故去。)

 

 「<これ>が滅する」ということが無い*3ので不滅である。乃至、「<これ>が去る」ということが無いので不去である(anidanirodhatāyāḥ anirodhaḥ / yāvad / anidanirgamatāyāḥ anirgamaḥ)。生・滅・一・異は、勝義において否定される。断・常は世俗において否定される。来・去〔について〕は、ある〔人〕は〔世俗と勝義〕両方で否定されるという。〔他の〕ある〔人〕は、このような一切のものは勝義において否定されると説く。

(無此滅故不滅。乃至無此去故不去。彼起滅一異。第一義遮。彼斷常者。世俗中遮。彼來去者。或言俱遮。或有說言。如是一切第一義遮。)

 

〔三十二種の偉大な〕様相を備えている*4ので、か〔の御方〕は世尊である(sākārāt so bhagavān)。「縁起」とは(pratītyasamutpādam ity)、種々の(aneka)因と縁(hetu-pratītya)が和合して〔何かが〕生起するのが、縁起と呼ばれる。言葉による自性への執著が行われなくなるのが、戯論の止息と呼ばれる。あらゆる災いが存在しないので〔吉祥(śiva)といい〕、または、〔世間あるいは諸大徳の*5〕<合意によるもの>*6(世俗あるいは随順勝義であるもの)が自性について空であるので*7寂静(śiva)と呼ばれる(sarvavyasanānāṃ nāstitvād vā samayatāyāḥ svabhāva-śūnyatāyāḥ śivam)。

(以彼為故。彼者佛婆伽婆。緣起者。種種因緣和合得起。故名緣起。語自性執。永不行故。名戲論息。一切災障無故。或時自性空名善滅。)

 

説法者とは、義*8を説き示すから〔そのように言うの〕である(vadatām ity arthadeśanāyāḥ iti)。顛倒することなく(saṃnirviparīta)、人(pudgala)と法(dharma)の二種の無我(nairātmya)に通達している(prativedha)ので、仏陀(saṃbuddhaḥ)と呼ばれる。このような意味によって〔最上の説法者である御方に〕私は敬礼(きょうらい)を為す(vandāmi)。

(說者開演義故。正不顛倒。通達人法二種無我。是故名為佛婆伽婆。由如此義故我作禮。}

 

どうして「諸々の説法者の中で最上である」というのか?かれは縁起において顛倒することなく、天と人〔への道〕、そして清らかなる涅槃への道を説き示すからである。声聞・独覚・菩薩を教誡するのに最も優れているからである。すでに述べたように顛倒なき、吉祥なる縁起(saṃnirviparīta-pratītyasamutpāda-śrī)の故に*9

(諸說中最上者。此言何謂。彼不顛倒緣起。開示天人涅槃信樂道故。教授聲聞獨覺菩薩最勝故。如所演說。正不顛倒。緣起勝故。)

 

問う。汝は「〔世尊が〕縁起の法を説いた」と自ら語ったが、もし縁起(縁って生じること)を語るなら、どうして〔それが〕不生(生じないこと)であるだろうか*10?もし不生を語るなら、どうして〔それが〕縁起であるだろうか?この言葉は自ら矛盾している。〔その言葉〕自身によって意味が破壊されている故に*11。「一切の言葉は虚偽である」というごとし*12。答える。もし一切の縁起がみな不生であるなら、私にこの過失が当てはまるということになるだろう。〔しかし、〕私は未だ一切の縁起が不生であると説いたことはないのだから、このような過失は無い。どのような意味でか?かの世俗諦において、縁起はあるからである。〔しかし〕勝義においても縁起があるのではない。因果論(hetuvāda)は、この意味で成立しない。たとえば布施等のごとし。勝義において「善を為す」とは〔我々は〕言わない。善については、それを<輪廻の所摂であるもの>と説くのである。

(問曰。汝向自言。說緣起法。若言緣起。云何不起。若言不起。云何緣起此語自相違。又生解退故。語義俱壞。如云一切言語皆是妄者。答曰。若一切緣起。皆不起者。彼當作解。我得此過。我未曾說一切緣起。皆不起故。無如上過。此義云何。彼世諦中。有緣起故。非第一義亦有緣起。彼說因者。此義不成。猶如檀等。第一義中。不說為善。攝生死故。說之為善。)

 

(又如說識為我。第一義中。識實非我。如此解知。是故無過。又如化丈夫起。丈夫自性。實無所起。亦如幻焰內入起等。世俗故說。非第一義。是故無咎。問曰。起後遮滅。法相應爾。以彼先故。如不斷者。答曰。生死無始故。先滅後起。此亦同遮。非一向因過。觀義次第不觀異。文若先遮。起與滅同過。復次曇無德人言。汝論初言。不起滅等。此無為法。別緣起者。是義不然。何以故。我法中有故。汝論初言。非聲聞等共緣起者。義不相應。論者言。遮自性故。說不起等。別緣起法。令汝得解。若言有彼無為緣起。令他信者。是義不然。驗無體故。若汝意謂。緣起決定。名緣起無為者。此解有過。何以故。由遮起故。彼起無體。不應名共。以無為無起有因故。譬如住。)

[0052a28] 復次經部師言不起等義。非聲聞不共。此義云何。彼異起無體。名為不起。如不自在。彼外道解滅。此滅無體。名為不滅。譬如無我。藉因果起故不斷。果起因壞故不常。彼摩尼珠。乾牛糞末。日光和合。如是起火。不可說彼體故不一。不可說異體故不種種。如是起時壞故。不來不去義正如此。汝論初言。不共聲聞。別緣起者。是義不然。論者言。汝雖有此語。違正道理。此義云何。彼起者不起故。我欲令人解不起等。別緣起義。以是不共別緣起故。在初讚歎佛婆伽婆。方作此論。先令了知起者不起。餘不滅等。則易可思。云何令解彼不起等。謂諸分別起者。現前知故。諸如是說。或言自起體。或言他起體。或言共起體。或言無因起體。此諸說皆不然。由依阿含及正道理。如實諦觀。起即無義。故造論者。自在決定。說此偈曰。

 無時亦無處  隨有一物體
 從自他及共  無因而起者

[0052b18] 釋曰。非自者。彼聚安立諸起法者。竟無體故。如一一次第。應知自者我義故。彼一切體。何義故遮。所謂遮者最勝義故。又無餘分別網遮故。無餘分別網者。謂無餘所識境界故。無境界者。欲成立無分別智故。復次遮者遮有餘受故。彼異方便說諸法不起。方便不起。令他解故。此非大乘悉檀。云何知耶。如阿含說。色不起行。不行般若波羅蜜故。復次不自起者。謂不自起如是體故。此正領解。若異此領解。而言不從自體起者。此義有過。有何等過。謂他起過故。復次汝言不從自體起者。非唯有他起過。及有自他共起過故。此非我欲。以違悉檀多故。此方便語。第一義中。諸內入等。無自起義。世所不行以有故。譬如思異部迴轉。不令解故。有故因者。同非因那。以譬喻無體。如是彼因迴轉非一切處。無譬過故。

[0052c05] 復次僧佉人言。汝所立者。立何等義。為果名自耶。為因名自耶。此有何過。若立果體為自者。我悉檀成。若立因體為自者。與義相違。以因中體有故。如是一切有起。應名為起。汝言不起者。義豈然耶。論者言。此語無義。汝不知耶。起分遮故。謂因自性起。及他性起。此等悉遮。汝不正思惟。出此言者惑故。無過有異。釋曰。諸法無有從自體起。彼起無義故。又生無窮故。彼不相應。此義云何。以不說因及譬喻故。又不能避他說過故。此破顯示顛倒成就過。云何顛倒。謂從他起體過。及生有果過。又生有窮過故。違悉檀多故。復次有異僧佉。作如是言諸體不自起者。此不應爾。何以故。自欲作起還自除故。如說三界有兔角起。復欲屏除汝義如此我所成立因果能了無異體故。猶如自我從彼因體果法自起。是故義成。論者言。邪分別說。不應道理。先遮彼義。是故無過。如是諸法。體不自起。從他起者。義亦不然。何以故。無時無處。隨有一體。從他起故。此義云何。他者異義。此方便語。第一義中。內入不從彼諸緣生。何以故。以他故。譬如瓶等。復次第一義中。他緣不能起眼等入。何以故。以他故。譬如經等。問曰。汝言他者。因義不成。何以故。立義一分故。譬如無常聲。聲故。答曰。汝不善說。無常聲者。是韋陀聲。聲故者。如鼓聲故。以見立義一分出因成故。非謂一邊。

[0053a03] 復次鞞世師人言。微塵為因。生諸法果。彼二微塵為初。次第如是地水火風聚實起成。汝言他者。為分別我求那因義耶。為分別異義耶。若分別我求那為因者。則因義不成。何以故。若離我體無別求那故。若彼異義分別者。即為世間解所破故。論者言。彼說不善總說因故。以彼法聚集能生他覺。如是覺因。總說為他非彼我及求那。異思惟故。世間所解。亦不破壞。立義別故。第一義中。地微塵初起。不名地實。以微塵故。譬如火塵。如是第一義中。火微塵初起。不名火實。以微塵故。譬如水塵。如是等次第應說。

[0053a15] 復次阿毘曇人言。汝言他者。為以果功能空。說為他耶。為當彼能不空說為他耶。二俱有過。何以故。若以果功能空。說為他者。因義不成故。若彼能不空者。彼能成法空。譬喻壞故。論者言。總說聚法故。物邊觀故。生他覺故。汝言因義不成。及能成法空。譬喻壞者。無此過失。似光影耳復次有自部言。若第一義中。彼內外入皆不起者。法體不成。能依止壞。汝得因義不成過故。論者言。世俗言說實故。瓶眼入等內外可得故。汝說過者。此不相應。復次佛護論師釋曰。他作。亦不然。何以故。遍一切處。一切起過故。論者言。彼若如此說過。即所成能成顛倒故。謂自俱因起體過故。或時有處隨一物起故先語相違。又若異此。遍一切處。一切起過。此語能成他起過者。此不相應。如偈曰。

 香附子苦蔘  菴摩羅除熱
 石女無有兒  竹笋重有苦
 兔印記月光  陽春時作樂

[0053b05] 復次異僧佉人言。彼別不別。地等種子。生芽等果。由如此義。說俱起體。彼說不然。何以故。不共者。非自他義。無時無處有一物體。從共起故。彼說有過。此復云何。若謂俱起。令他信者。驗無體故。此義不成。復次此中又遮裸形部義。說不共起。此義云何。彼謂金與非金。人功火等。自他力故。環釧等起。彼如是說。為遮彼故。說不共起。應如此知。復次不無因者。此義云何。無時無處。有一物體。無因起故。何故無因。驗無體故。若說有驗。即為世間。所驗解破。有此過故。世間驗者。其相云何。世俗欲令內入體生。何以故。總別有故。譬如芽等。復次世間所解過者。於彼世間。若有此物。知從因生。如絲成絹。如篾成筐。如泥成瓶等。為彼過故。復次彼惡因者。亦名無因。如無婦等。何等惡因。所謂自性及自在天。丈夫藏時。那羅延等不真實故。是故此等無因。不能起體。若謂從彼自性等起。令人解者。驗不爾故。若說有驗。此亦有過。復次執自性者。說如是言。我立此義。自性有彼。內入等生。何以故。莊嚴我體故。如水生花根鬚莖葉好色形相。如大青珠因陀羅尼羅阿毘尼羅寶等。又如孔雀項邊種種纈目光明可愛。皆自性爾。論者言。彼立此義。自性作者。不觀業因。無有作者。若爾彼內入生因緣決定世智所行等。共言說成。已復成過。若第一義。譬喻無體。何以故。第一義中。蓮花寶等。本無生故。復次汝欲共。我立無因義。一切法成。我今示汝以無因故。一切不成。又彼立無因。若說因者。先執破故。復次若謂我立無因。不能令彼說因者解故。須出因今解無因。譬如共夷狄人。還行彼語。為此義故。方便說因。亦非先語破者。是義不然。何以故。語邊轉者。亦如所得相。以此相義。令彼得解。如語夷狄。彼處有煙。則知有火。令彼了知相覺起故。此彼語異。是故不成。復次有異僧佉。婆冑羅人言。彼歌羅羅。及以芽等。無緣故起。若瓶衣等。有緣故起。非一切體。自性起故。成我所成。論者言。彼一切時。一切物起。皆悉遮故。汝所說者。此不相應。由如是義。無自性起。復次外人有執自在為因者。說如是言。眾生無智。於苦樂中。不得自在。善道惡道。皆是自在之所使故。論者言。彼立是義。自在令為世間起因。於世俗中。亦不應爾。何以故。或有憂喜因故。如牧牛者。若執自在名一切因作世間者。此義不然。當如是知。由所量故譬如自在。是故當知。於彼世俗。亦非自在。能起諸法。若汝定謂自在為因。生諸法者。是因與果。為自性。為他性。為俱性。此異分別。先已遮故。有起無起。後當廣破。第一義中。自在不能起諸法故。或有說言。眾生世間。及器世間。種種業因。為自在故。彼住起壞。苦樂增減。通為依止。作是說者。成我所成。世俗言說。非第一義。以第一義中業不起故。

[0054a01] 復次彼執丈夫為生因者。說如是言。一切世間丈夫為因故。是義云何。如糸齊織網。如月珠出水。如樹生枝葉等。一切眾生。以彼為因。亦復如是。所謂彼過去未來。動不動等。遠近內外。如是一切。皆丈夫為因。論者言。前執自在為因。中已遮此計。今當復說。如調達我。不作調達身根聚因。何以故。由我故。譬如耶若達多自我。復次耶若達多身根等聚。非耶若達多我之所作。何以故。由彼樂苦智起因故。譬如提婆達多身根等聚。若謂彼繫縛我為三界因非一切者。此義不然。何以故。由我故如解脫我。彼執不成。立義過故。問曰。汝言我故因者。此自立義中。是一分故。汝出因者。是義不成。有過失故。答曰。無過失義。先已說故。何故無過。如上云。無常聲聲故。譬如鼓聲。若有說言。我所立義。唯是一我。如一虛空瓶等分別。皆是其假假故無量。為此義故。譬喻無體。驗破不成。立義無過故。論者言。彼不善說。此義云何。以虛空無生故。如虛空花。體不可得。如是而言。一虛空者。此義不成。但有言說。世俗法中。總說我者。示假令識故。汝立一我。令他信者。驗無體故。此義不成。問曰。縛我脫我。更無異體。何以故。由我故如解脫我。答曰。無餘涅槃界中。一解脫我。此有不成。如先說過。不能避故。如觀我品。當廣解說。

[0054a27] 復次僧佉人言。如我立義。彼自性為因。謂梵摩為初。下至住持際。諸法果生。皆因自性。如彼內入。為苦樂癡因。決定作因。彼具有故。若世間物。彼具有者。我知為因。如栴檀札。如瓦器片。金莊嚴具。如是等總別因故。由彼內入具有樂苦癡等故。說內入為彼樂苦癡因。如是應知。色想行識諸陰。皆是樂苦癡等自性。何以故。由陰故。譬如受陰。是故因及譬喻義皆得成。論者言。為此故。第一義中。栴檀等譬不成。以無體故。於世俗中。癡者行陰攝故。譬喻不成。彼樂苦等二。異外諸法。非樂苦自性。應如是知。何以故。所量故。譬如覺驗不相應。問曰。汝第一義中。無譬喻故。答曰。總說覺故。世間共解。取為譬喻。亦非譬喻無體。以是義故。彼藏不為大等諦因。由不了故。譬如丈夫。汝若欲說自性為因者。自驗破故。外人言。我立丈夫。與思相應。則得明了而言由不了故者。此因不成。又能成法。不具故。亦譬喻過故。論者言。彼語無義。此復云何。總說因故。立別義故。處處不了。總一不成。或有說言。亦不無因。能起諸法。彼性時那羅延等為因故者。如遮自在中說。應知。

[0054b21] 復次僧佉人言。汝說不自。不他。不共。不無因。有處有體。能起一物者。誠如所言。彼實不起。雖實無起。以了作故。論者問言。是何等物。云何了作。僧佉人言。如燈瓶等。論者言。燈瓶二物。本自不生。云何以不生燈。欲了作。彼不生瓶等。如無馬角。豈能了耶。以第一義中諸法不生故。依於世諦。作如是問。彼燈於瓶。何所作用。外人言。受作故。論者言。受本先無。於後始有。先無後有。受即是作。若言暗中眼識爾時無受。由有燈明暗障等破者。如前已遮。是作法故。又暗障破者。豈非作耶。若汝執言。受見先有。若先有者。燈復何用。復次云何名瓶。如我法中。四大及所造和合故名瓶。彼燈在時。與明俱起。以是義故。世諦法中。有所作因。一一物體。各從自因相續而起。所以者何。如明與物體俱起。是為了因。第一義中起法皆無。亦無有了。非大等諸諦。不了之物。能令其了。何以故。由不了故。譬如空花。是故汝言未了者了。此語非也。復次佛護論師釋此句云。亦非無因起彼物體。何以故。若無因者。應於一切處一切物常起。有如是過。此義不然。何以故。汝此語義。能成所成。分明顛倒。是義云何。謂彼物體從因起故。或有時有體起。或有處一物起有初起故。與先語相違。如是不相應者。先已說過故。若彼有異不相應義者。亦如先說。復次此中亦不無因起者。一切諸論。無如是說。有時有處。若自宗。若他宗。無有一物。若染若淨。從無因起者。一一應如是說。以是故不共外道等。別緣起不起等義得成。復次阿毘曇人言。有四種緣。能生諸法。云何而言緣起不起如我。偈曰。

 因緣及緣緣  次第增上緣
 四緣生諸法  更無第五緣

[0054c26] 釋曰。因緣者。謂共有自分相應遍報等。五因緣緣者。謂一切法。次第緣者。除阿羅漢最後所起心心數法。增上緣者。謂所作因。無第五者。若自宗他宗。若天上人間。若修多羅。若阿毘曇。及餘諸論。佛未曾說有第五緣。復次如大眾部。亦作是言。先生無有等諸緣。皆於四緣中攝。以是義故。此四種緣。能生諸法。汝言物體不從他起者。是義不然。論者偈曰。

 所有諸物體  及以外眾緣
 言說音聲等  是皆無自性

[0055a07] 釋曰。諸物體者。謂彼眼等。外眾緣者。謂歌羅邏等。言說聲者。謂和合時。無自性者遮彼自體。是義云何。彼諸體等。皆無自性。亦非異處。及自在等有也。是故說言。彼他無體。復次何等為自體而言眾緣為他體彼有者。如先不起義中已說驗破。以是故汝於此中。不能破我。復次或有自心虛妄分別者。作是說言。若有能起諸法體者。說為他起。非是自體。若無他緣。則不能生。有他緣故。諸法得起。緣決定故。我作是解者。是義不然。何以故。若作是語。遮自起者。助成我義。若諸體未起。他能令起。是語不善。同前遮故。復次若言體不從他起。遮彼體外有異起者。助成我喻。以是義故。赤白緣中。無有眼等。以眾緣中眼法空故。所以者何。眾緣無自體。以無他故。復次是中有二種語。第一義中。彼眼入等。不從赤白眾緣而起。何以故。眼等無故。如瓶。第一義中。赤白眾緣。無其功能。生眼入等。何以故。彼眼空故。譬如織刀。是故佛說。第一義中。因及眾緣不能生眼。如是應知。佛為憐愍世間住於亂慧無因惡因諸諍論者。於世諦中。說有因緣。次第緣。緣緣增上緣。以是緣故。我義不破。應如是知。復有異分別者。言體從他起。論者言。彼共於此。復應思量。是四緣中。云何能生眼等諸體。復有異名差別。如大眾部。及鞞世師等。所分別者。彼亦隨相。於此中攝。是故決定無第五緣如是。第一義中眼等及他。皆不應爾。云何不然。如偈曰。

 自我等諸體  內入等眾緣
 一一皆不有  以無自性故

[0055b08] 釋曰。諸緣中。若總若別。彼眼等體。皆不可得。此等聲者。別因中無。和合中亦無。異中亦無。若世諦。若第一義諦。未曾有時。有無自性。物體先起。亦未曾有無自性物。諸緣他體。未來欲起。諸他義者。云何得成。一向無他。以他因無體故。

[0055b14] 復次若汝自心妄置諸法有體未來當起待此體故。彼緣為他相待力故說緣為他者。但有是語。何以故。彼等眾緣無他性故。是故不應於此生著。於世諦中假說有他。第一義中。彼他不起。先已說故。僧佉人言。如我意謂有微細我體。彼於後時作令明了。即以不了果緣而為他義。是故得成。汝何能破。論者言。汝語非也。世間愚人不作此解。瓶等細我。其義難成。汝言了者。先已破故。

*1:特殊の意。

*2:デルゲ版:'gro zhes bya ba ni phar 'gro ba'o/ /

*3:このように言うのは、中観派では勝義において何かが存在することを否定しているためであろう。初期仏教(Early Buddhist Schools)では勝義法の存在を認める。

*4:彼(sā)為(kāra)。

*5:法相を認めるアビダルマ師と法相の枠組み自体を拒否するアンチ・アビダルマ師の対立というような状況は考えにくいのでこのように補足した。何となれば、龍樹造と伝わる『無畏論』第26品には十二縁起支の詳細について経典とアビダルマを参照するよう指示する箇所があり、月称には独自の法相を説く『中観五蘊論』があるからである。瑜伽行派が固有の大乗アビダルマを持つのは周知の通りである。

*6:時(samaya, samayatā)。

*7:チベット訳は「本質(自性)によって空である故に」と、一見もっともらしいが、いったい何について「自性を欠く」と言っているのか不明瞭であり、疑問を覚えざるを得ない。デルゲ版:ram/ ngo bo nyid kyis stong pa'i phyir ro/ /

*8:梵語アルタは多義的である。「利益」、「目的」、「対象」、「〔言葉の〕意味」などを指す。

*9:デルゲ版:ji skad smos pa'i khyad par phyin ci ma log pa dang ldan pa'i rten cing 'brel par 'byung ba gsungs pa'i phyir ro/ /

*10:八不における「生じることなく」云々の語句はすべて、縁起に掛かるからである。

*11:デルゲ版:de nyid kyis de'i don la skur ba btab pa'i phyir/

*12:「一切の言語は虚偽である」という言明自体が「一切の言語」に当てはまるため、矛盾となる。

『般若灯論』観作者業品第八

 

「行為者によって業があり、業によって作者がある。

これによって業が成立するのであって、他の原因は存在しない。」

(緣作者有業  緣業有作者
由此業義成  不見異因故)

 

以上(iti)*1。 注釈して言う。世俗諦においては、行為者と為される業は相互依存(parasparāpekṣā)である。この他に、業を成立させる他の原因(kāraṇa)は存在しない。このように外道の論書は、初めに因縁を説いて譬えを立てたけれども、義がすべて成立せず、義に違背する、という(iti)過失(doṣa)が当てはまる。また、ある人がこのように言う、「勝義諦においては、蘊処界は存在する、そ〔れへ〕の取*2〔がある〕ゆえに(tadupādānād)。このように世尊は説かれた。」と。そ〔の見解〕を破するために、偈頌に言う。

(釋曰。於世諦中。作者作業更互相觀。離此之外。更無異因能成業義。如是外人品。初已來說因立譬。義皆不成。及違義故。不免過失。復次或有人言。第一義中有陰入界。以彼取故。佛婆伽婆作如是說。為遮彼故。偈曰。)

 

「業と行為者を破折したように、取についても同様に知るべし。」

(如業作者離  應知取亦爾)

 

注釈して言う。すでに、行為者によって業があり、業によって行為者があると〔して、それらの実在性を〕否定したように、そのように、取によって取者(upādātṛ、執著する者)があり、取者によって取があるのであって、〔これらは〕勝義においては得られない、と(iti)。どのような意味によってか?行為者と業がともに否定されたので、これらの取と取者〔もまた〕否定されるのである。そこでまた次に(tatra khalu punar)*3、分別〔なき〕(avikalpa)勝義において、〔何かを〕真実(satya)として取する、取者としての真実のデーヴァダッタ(Devadatta)は存在しない。どうしてか?〔そのデーヴァダッタは〕取に依存している*4からである(upādānāpekṣāyāḥ)。たとえばヤジュニャダッタ(Yajñadatta)のごとし。このように(evaṃ)勝義においては、真実ならざる〔仮設としての〕取者が取するところの、真実ならざる〔仮設としての〕取もまた無い。真実であるものであれ、真実ならざるものであれ(satyāsatya)、〔勝義において〕取の成立〔しないこと〕(anupādānatā-siddhi)を知るべし。

(釋曰。如先已遮。作者緣業。業緣作者。如是取緣取者取者緣取。第一義中不可得故。此義云何。由作者業二俱離故。彼取取者亦如是離。復次此中分別第一義中無實調達取者實取。何以故。以觀取故。譬如耶若達多。如是第一義中亦無無實取者取無實取。亦實不實取立義應知。復次第一義中無實可取為實提婆達多取觀彼取者故。譬如耶若達多取。如是第一義中亦無不實取。為不實取者取。亦實不實取。為亦實不實取者取。立義差別。因及譬喻如先已說。如是不等分別亦應類遮。復次由業作者及取取者。第一義中以性離故。如偈曰。)

 

「またその他のいかなる法もこのように見られるべきである。」

(及餘一切法  亦應如是觀)

 

ソース:

T30n1566 般若燈論釋 | CBETA 漢文大藏經

*1:不見異因。故(iti)。

*2:執著のこと。

*3:復次(khalu punar)此中(tatra)。

*4:觀(apekṣā)取(upādāna)。

『中観荘厳論』63偈

(63) de phyir dngos po 'di dag ni/ /kun rdzob kho na'i mtshan nyid 'dzin/ /
gal te 'di dag don 'dod na/ / de la kho bos ci zhig bya/ /

それゆえ、これらの事物(dharma)は、「ただ世俗のみ」という特徴(lakṣaṇa)を持つ。
もし、〔誰かが〕これら〔の事物〕を”真実の意味”(正義、artha)〔を持つもの〕と受け取るなら、彼にたいして何ができるというのか?(ci zhig bya)

「吉迦夜」還梵案(1)

「吉迦夜」還梵案:Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

プラークリット形: Kittikāya (キッティカーヤ)

サンスクリット形: Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

吉: /kiɪt̚/

迦: /kˠa/

夜: /jiaH/

『般若心経』 釈提婆(シャーキャデーヴァ) 註

 

「深遠なる般若波羅蜜を行じている時、」
(行深般若波羅蜜多時。)

 

般若〔波羅蜜〕は〔奥深く〕底がないので、「深遠なる」という。明瞭に観察して断絶がないのを「行」という。「時」とは、瑜伽者が智慧を用い、理を悟る、〔そのように智慧と理解が〕双運する時である。それゆえ、「深遠なる般若波羅蜜を行じている時」という。
(般若無底。故言深。觀照不絕。所以言行。時者。即是行人運慧悟理。契合之時。故言行深般若波羅蜜多時。)


五蘊がみな空であると明らかに見て、」
(照見五蘊皆空。)

 

五蘊とは、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕のことである。〔「蘊」を〕「蔭」ともいい、「蔭」とは「覆う」という意味である。「蘊」とは「集まり積もる」という意味である。〔この〕「覆う」という性質は移り変わることがない。空性が〔「覆う」性質を〕変えてしまうということはないのである。「覆う」〔性質の〕事物(ダルマ)は生じ滅するからである。すなわち、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕が〔智慧によって〕ただ「覆うもの」、「集まったもの」であると明らかにされ、〔それらは〕無生〔である〕と知り尽くされる。〔このような道理を〕明らかに観察する時、取る〔べき〕ものも、捨てる〔べき〕ものも存在しないと知る。それゆえ、「五蘊がみな空であると明らかに見て、」という。
(五蘊者。即色受想行識也。亦云蔭。蔭者蔭覆之義。蘊者蘊積之義也。然蔭性無遷。空無變改。蔭法生滅故。即色受想行識。他明乃蔭集。已曉即無生。於觀照之時。了無取捨。故照見五蘊皆空。)

 

「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」
(度一切苦厄。)

 

執著があって認識対象を追いかけるものを〔本当の〕心とは呼ばない。それは煩わしく価値のないものである。意に適えば喜びを生じるが、貪欲の心は転じて〔己が身を焼く〕炎となる。これは苦と楽が交互に集起する〔のみである〕。〔これが〕災いであることに何の疑いがあるだろうか?〔しかして、心が〕道に適えば、この〔意の〕門において、様々な苦難〔と出会おうと、心は〕動ずることがない。それゆえ、「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」という。
(存情逐境不稱心。乃煩冤。契意生欣。欲心轉熾。此即苦樂交集。厄者何疑。合道之。於此門中。八風不動。故言度一切苦厄。)

 

「シャーリプトラよ、」
(舍利子。)

 

シャーリ〔-〕とは梵語であり、鳥の名前である。こ〔の言葉〕についての翻訳家たち〔の解釈〕は各自ことごとく異なっている。あるいは「秋露子」と訳し、あるものは「眼珠子」、あるものは「身子」とする。これらはすべて誤った説を承けたものである。しかるにシャーリ〔-〕とは、ハッカチョウという鳥がそ〔の意味〕である。シャーリプトラの母は眼がハッカチョウの眼に似ていて、圓満にして明浄であり。また、聡明にして知識が豊富だった。当時の人々はみな〔シャーリプトラの母の〕眼によって、〔彼女であると〕見分けた。それゆえに「シャーリ」と号する。〔シャーリプトラは〕生まれながらにしてすでに、聡明さにおいて母に勝(まさ)っていた。人々は〔シャーリプトラも、その母と〕ともに、〔聡明であることを〕知ったので、シャーリプトラ(シャーリーの子)と呼んだのである*1。「プトラ」とは梵語であって、これを訳すれば「子」である。それゆえ「舍利子」(シャーリーの子)と訳すのである。智慧第一であって、〔釈迦牟尼〕仏に帰依して出家し、阿羅漢果を得、〔釈迦牟尼〕仏と〔法について〕対話した。それゆえ、〔そのように智慧ある仏弟子なので、〕その名を呼ぶのである。
( 舍利者梵音。鳥名也。此翻諸家各悉不同。或云秋露子。或云眼珠子。或云身子。此皆承虗忘說。然舍利者。鴝鵒鳥者是。舍利弗母。眼似鴝鵒眼。圓而明淨。又復聰明多知。于時世人皆識因眼。故號為舍利。既其所生。勝母聰明。世人共識。稱為舍利弗。弗者梵音。此翻為子。故言舍利子。聰明第一。投佛出家。得阿羅漢果。佛與對談。故呼其名。)


「色は空性と異ならない。」
(色不異空。)

 

色は空性より生じ、一瞬一瞬に移り変わって滅する。曇った心〔によって見れば〕、質礙*2があり、透徹した〔智慧の〕心で観察すれば、〔空性の境地においてはあらゆる分別は止み、心はいかなる特徴をも捉えることがないので、色は〕究極的には形体なきもの〔であり、形体という性質は実体を持つものではないと知る〕。〔ゆえに〕顛倒した心は究極のものでないと知るべきである。凡夫は色が滅したときにはじめて「〔これは〕空なるもの〔である〕」と言うが、〔無生法忍を得た〕菩薩は森羅万象について惑うことなく、色と空性が一体であることを明らかに知る。それゆえ、「色は空性と異ならない。」というのである。
(即色從空而生。念念遷滅。滯心即有質。通情照觀。則畢竟無形。當知妄情非是究竟。凡夫滅色。始得言空。菩薩不妨參羅。了達色空一體。故言色不異空也。)

 

「空性は色と異ならない。」
(空不異色。)

 

空性において色が生じるのであって、〔すなわち、諸々の〕縁が和合すると色という名称が生じる。〔そして諸々の〕縁が散佚すれば、空性と呼ばれる。色は空性によらなければ〔、すなわち空であり実体を持たないものでないなら〕、変化することもありえない。〔そして、〕衆生が空であること(生空)は〔五蘊の一つである〕色〔蘊〕によらなければ、名称が成立しない。そ〔れら色と空性〕の根源〔的なあり方〕を説明するなら、〔色と空性は〕必ず相互依存である。それゆえ、「空性は色と異ならない。」というのである。

(即空中生色。緣會故名色。緣散故言空。色不因空。不能生長。生空不因色。則不立名。欲顯其源。要須相藉。故言空不異色也。)

 

「色は空性である。」
(色即是空。)

 

色という法(ダルマ)は、虚妄を本質とする。色の自性は空という自性である。色が滅したときはじめて空〔となる〕のではない。それゆえ、「色は空性である。」というのである。
(即色法妄質。色性體空性。不以滅色始空。故言色即是空。)

 

「空性は色である。」
(空即是色。)

 

森羅万象はみな空性より出る。言葉によれば、〔すなわち世俗諦によれば、真実には空であり特徴なきこの世界において、〕『〔これは〕色〔である〕』ということができる。心を集中して空性について観察すれば、空性には依り所〔である色〕が有ることを見る。どうして空性が色でないだろうか?〔また、〕「私がいる」〔という自我意識を持つ〕人は空なるものと、空ならざるものに執著するが、自我意識がない人にとっては、空なるものも、実在するものもなく、心において、清浄なる円融*3が顕現する。それゆえ、「空性は色である。」というのである。
(萬像參羅。皆從空出。言亦得言即色。注心觀空。見有空體。豈非空即是色。存吾之者。著空不空。忘我之人。無空無有。意顯清混。故言空則是色。)

 

「受・想・行・識もまた同様である。」
(受想行識。亦復如是。)

 

ひとつの蘊(=色蘊)がすでにこのようなものであるので、残りの四つの蘊もまた同様である。それゆえ、「また同様である。」というのである。
(一蔭既爾。餘四亦然。故言亦復如是。)

 

「シャーリプトラよ、諸法の特徴は空性である。」
(舍利子。是諸法相空。)

 

これは以前に説かれたことを重ねて〔言うので〕あって「一切法は等しく空という自性と特徴をもつ」ということを示すのである。
(此則疊前所說。印一切法同空性相。)

 

出典:X26n0526 般若心經註 ( 1 卷) 【中天竺 提婆註】

*1:シャーリプトラの本名はウパティシャ(Upatisya)である。

*2:空間的に位置を取り、同一の位置に他のものが共存できない物質的性質。仏教において精神的現象が空間的な位置を取らないのと対照をなす。

*3:円融(えんゆう、えんにゅう)とは「〘仏〙 個々のものが、それぞれの立場を保ちながら融和し、さまたげのないこと。完全にとけあっていること。」(大辞林 第三版より