What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

『四分律』受戒揵度より 最初の優婆塞

「商人たちよ、今や仏に帰依し、法に帰依しなさい。」〔かれらは〕仏の教誡を受けて言った、「尊き方(bhavant)よ、私は今や仏に帰依し、法に帰依しましょう。」この二帰依を受けた〔商人たち〕が優婆塞の最初〔の人々〕であり、この商人の兄弟二人を〔優婆塞の〕始まりとするのである。

(「汝等賈人!今可歸依佛、歸依法。」即受佛教,言:「大德!我今歸依佛、歸依法。」是為優婆塞中最初受二歸依,是賈客兄弟二人為首。)

無畏論 (akutobhayā) 第25章24偈への注釈 訂正案 (A proposed interpretation to the Akutobhayā's comment on MMK, Chapter 25, Verse 24)

sprul ba bzhin nam sor 'phreng bzhin no/ /

སྤྲུལ་བ་བཞིན་ནམ་སོར་འཕྲེང་བཞིན་ནོ།

 

Reconsrtucted text:

nirmāṇā ca aṅgulimālā iva.

निर्माणाचाङ्गुलिमालेव

 

English Translation:

As is the case for the finger-garland (of Angulimala) is created (by supernatural-power of Angulimala himself who is Sarvaloka-sudarśana Buddha in reality).

 

日本語訳:

指鬘の化なるが如し。

(指で出来た腕輪が〔一切世間楽見上大精進如来*1によって〕化作されたものであるごとし。)

*1:蔵訳名:'jig rten thams cad (Sarvaloka-),  mthong na dga' ba (sudarśana),  mngon par 'phags pa (Tathāgata),   brtson pa chen po (Mahāvīrya).

『中観荘厳論』63偈

(63) de phyir dngos po 'di dag ni/ /kun rdzob kho na'i mtshan nyid 'dzin/ /
gal te 'di dag don 'dod na/ / de la kho bos ci zhig bya/ /

それゆえ、これらの事物(dharma)は、「ただ世俗のみ」という特徴(lakṣaṇa)を持つ。
もし、〔誰かが〕これら〔の事物〕を“真実の意味”(正義、artha)〔を持つもの〕と受け取るなら、彼にたいして私は何ができるというのか?

「吉迦夜」還梵案(1)

「吉迦夜」還梵案:Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

プラークリット形: Kittikāya (キッティカーヤ)

サンスクリット形: Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

吉: /kiɪt̚/

迦: /kˠa/

夜: /jiaH/

『般若心経』 釈提婆(シャーキャデーヴァ) 註

 

「深遠なる般若波羅蜜を行じている時、」
(行深般若波羅蜜多時。)

 

般若〔波羅蜜〕は〔奥深く〕底がないので、「深遠なる」という。明瞭に観察して断絶がないのを「行」という。「時」とは、瑜伽者が智慧を用い、理を悟る、〔そのように智慧と理解が〕双運する時である。それゆえ、「深遠なる般若波羅蜜を行じている時」という。
(般若無底。故言深。觀照不絕。所以言行。時者。即是行人運慧悟理。契合之時。故言行深般若波羅蜜多時。)


五蘊がみな空であると明らかに見て、」
(照見五蘊皆空。)

 

五蘊とは、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕のことである。〔「蘊」を〕「蔭」ともいい、「蔭」とは「覆う」という意味である。「蘊」とは「集まり積もる」という意味である。〔この〕「覆う」という性質は移り変わることがない。空性が〔「覆う」性質を〕変えてしまうということはないのである。「覆う」〔性質の〕事物(ダルマ)は生じ滅するからである。すなわち、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕が〔智慧によって〕ただ「覆うもの」、「集まったもの」であると明らかにされ、〔それらは〕無生〔である〕と知り尽くされる。〔このような道理を〕明らかに観察する時、取る〔べき〕ものも、捨てる〔べき〕ものも存在しないと知る。それゆえ、「五蘊がみな空であると明らかに見て、」という。
(五蘊者。即色受想行識也。亦云蔭。蔭者蔭覆之義。蘊者蘊積之義也。然蔭性無遷。空無變改。蔭法生滅故。即色受想行識。他明乃蔭集。已曉即無生。於觀照之時。了無取捨。故照見五蘊皆空。)

 

「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」
(度一切苦厄。)

 

執著があって認識対象を追いかけるものを〔本当の〕心とは呼ばない。それは煩わしく価値のないものである。意に適えば喜びを生じるが、貪欲の心は転じて〔己が身を焼く〕炎となる。これは苦と楽が交互に集起する〔のみである〕。〔これが〕災いであることに何の疑いがあるだろうか?〔しかして、心が〕道に適えば、この〔意の〕門において、様々な苦難〔と出会おうと、心は〕動ずることがない。それゆえ、「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」という。
(存情逐境不稱心。乃煩冤。契意生欣。欲心轉熾。此即苦樂交集。厄者何疑。合道之。於此門中。八風不動。故言度一切苦厄。)

 

「シャーリプトラよ、」
(舍利子。)

 

シャーリ〔-〕とは梵語であり、鳥の名前である。こ〔の言葉〕についての翻訳家たち〔の解釈〕は各自ことごとく異なっている。あるいは「秋露子」と訳し、あるものは「眼珠子」、あるものは「身子」とする。これらはすべて誤った説を承けたものである。しかるにシャーリ〔-〕とは、ハッカチョウという鳥がそ〔の意味〕である。シャーリプトラの母は眼がハッカチョウの眼に似ていて、圓満にして明浄であり。また、聡明にして知識が豊富だった。当時の人々はみな〔シャーリプトラの母の〕眼によって、〔彼女であると〕見分けた。それゆえに「シャーリ」と号する。〔シャーリプトラは〕生まれながらにしてすでに、聡明さにおいて母に勝(まさ)っていた。人々は〔シャーリプトラも、その母と〕ともに、〔聡明であることを〕知ったので、シャーリプトラ(シャーリーの子)と呼んだのである*1。「プトラ」とは梵語であって、これを訳すれば「子」である。それゆえ「舍利子」(シャーリーの子)と訳すのである。智慧第一であって、〔釈迦牟尼〕仏に帰依して出家し、阿羅漢果を得、〔釈迦牟尼〕仏と〔法について〕対話した。それゆえ、〔そのように智慧ある仏弟子なので、〕その名を呼ぶのである。
( 舍利者梵音。鳥名也。此翻諸家各悉不同。或云秋露子。或云眼珠子。或云身子。此皆承虗忘說。然舍利者。鴝鵒鳥者是。舍利弗母。眼似鴝鵒眼。圓而明淨。又復聰明多知。于時世人皆識因眼。故號為舍利。既其所生。勝母聰明。世人共識。稱為舍利弗。弗者梵音。此翻為子。故言舍利子。聰明第一。投佛出家。得阿羅漢果。佛與對談。故呼其名。)


「色は空性と異ならない。」
(色不異空。)

 

色は空性より生じ、一瞬一瞬に移り変わって滅する。曇った心〔によって見れば〕、質礙*2があり、透徹した〔智慧の〕心で観察すれば、〔空性の境地においてはあらゆる分別は止み、心はいかなる特徴をも捉えることがないので、色は〕究極的には形体なきもの〔であり、形体という性質は実体を持つものではないと知る〕。〔ゆえに〕顛倒した心は究極のものでないと知るべきである。凡夫は色が滅したときにはじめて「〔これは〕空なるもの〔である〕」と言うが、〔無生法忍を得た〕菩薩は森羅万象について惑うことなく、色と空性が一体であることを明らかに知る。それゆえ、「色は空性と異ならない。」というのである。
(即色從空而生。念念遷滅。滯心即有質。通情照觀。則畢竟無形。當知妄情非是究竟。凡夫滅色。始得言空。菩薩不妨參羅。了達色空一體。故言色不異空也。)

 

「空性は色と異ならない。」
(空不異色。)

 

空性において色が生じるのであって、〔すなわち、諸々の〕縁が和合すると色という名称が生じる。〔そして諸々の〕縁が散佚すれば、空性と呼ばれる。色は空性によらなければ〔、すなわち空であり実体を持たないものでないなら〕、変化することもありえない。〔そして、〕衆生が空であること(生空)は〔五蘊の一つである〕色〔蘊〕によらなければ、名称が成立しない。そ〔れら色と空性〕の根源〔的なあり方〕を説明するなら、〔色と空性は〕必ず相互依存である。それゆえ、「空性は色と異ならない。」というのである。

(即空中生色。緣會故名色。緣散故言空。色不因空。不能生長。生空不因色。則不立名。欲顯其源。要須相藉。故言空不異色也。)

 

「色は空性である。」
(色即是空。)

 

色という法(ダルマ)は、虚妄を本質とする。色の自性は空という自性である。色が滅したときはじめて空〔となる〕のではない。それゆえ、「色は空性である。」というのである。
(即色法妄質。色性體空性。不以滅色始空。故言色即是空。)

 

「空性は色である。」
(空即是色。)

 

森羅万象はみな空性より出る。言葉によれば、〔すなわち世俗諦によれば、真実には空であり特徴なきこの世界において、〕『〔これは〕色〔である〕』ということができる。心を集中して空性について観察すれば、空性には依り所〔である色〕が有ることを見る。どうして空性が色でないだろうか?〔また、〕「私がいる」〔という自我意識を持つ〕人は空なるものと、空ならざるものに執著するが、自我意識がない人にとっては、空なるものも、実在するものもなく、心において、清浄なる円融*3が顕現する。それゆえ、「空性は色である。」というのである。
(萬像參羅。皆從空出。言亦得言即色。注心觀空。見有空體。豈非空即是色。存吾之者。著空不空。忘我之人。無空無有。意顯清混。故言空則是色。)

 

「受・想・行・識もまた同様である。」
(受想行識。亦復如是。)

 

ひとつの蘊(=色蘊)がすでにこのようなものであるので、残りの四つの蘊もまた同様である。それゆえ、「また同様である。」というのである。
(一蔭既爾。餘四亦然。故言亦復如是。)

 

「シャーリプトラよ、諸法の特徴は空性である。」
(舍利子。是諸法相空。)

 

これは以前に説かれたことを重ねて〔言うので〕あって「一切法は等しく空という自性と特徴をもつ」ということを示すのである。
(此則疊前所說。印一切法同空性相。)

 

出典:X26n0526 般若心經註 ( 1 卷) 【中天竺 提婆註】

*1:シャーリプトラの本名はウパティシャ(Upatisya)である。

*2:空間的に位置を取り、同一の位置に他のものが共存できない物質的性質。仏教において精神的現象が空間的な位置を取らないのと対照をなす。

*3:円融(えんゆう、えんにゅう)とは「〘仏〙 個々のものが、それぞれの立場を保ちながら融和し、さまたげのないこと。完全にとけあっていること。」(大辞林 第三版より