What's the matter? No matter - 仏教ブログ

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『般若灯論』観作者業品第八

 

「行為者によって業があり、業によって作者がある。

これによって業が成立するのであって、他の原因は存在しない。」

(緣作者有業  緣業有作者
由此業義成  不見異因故)

 

注釈して言う。世俗諦においては、行為を為す行為者と業は相互依存(parasparāpekṣā)である。この他に、業を成立させる他の原因(kāraṇa)は存在しない。…過失(doṣa)が当てはまる。また、ある人がこのように言う、「勝義諦においては、執著するべき〔対象〕としての蘊処界があると、このように世尊は説かれた。」と。そ〔の見解〕を破折するために、偈頌に言う。

(釋曰。於世諦中。作者作業更互相觀。離此之外。更無異因能成業義。如是外人品。初已來說因立譬。義皆不成。及違義故。不免過失。復次或有人言。第一義中有陰入界。以彼取故。佛婆伽婆作如是說。為遮彼故。偈曰。)

 

「業と行為者を破折したように、取についても同様に知るべし。」

(如業作者離  應知取亦爾)

 

注釈して言う。すでに、行為者によって業があり、業によって行為者があると〔して、それらの実在性を〕否定したように、そのように、取(upādāna、執著)によって取者(upādātṛ、執著する者)があり、取者によって取があるのであって、〔これらは〕勝義においては得られない。どのような意味によってか?行為者と業がともに否定されたので、これらの取と取者〔もまた〕否定されるのである。そこでまた次に(tatra khalu punar)、分別〔なき〕(avikalpa)勝義において、〔何かを〕真実(satya)として取する、取者としての真実のデーヴァダッタ(Devadatta)は存在しない。どうしてか?〔そのデーヴァダッタは〕取に依存しているからである(upādānāpekṣāyāḥ)。たとえばヤジュニャダッタ(Yajñadatta)のごとし。同様に勝義においては、真実ならざる〔仮設としての〕取者が取するところの、真実ならざる〔仮設としての〕取もまた無い。真実であるものであれ、真実ならざるものであれ(satyāsatya)、〔勝義において〕取の成立〔しないこと〕(anupādānatā-siddhi)を知るべし。

(釋曰。如先已遮。作者緣業。業緣作者。如是取緣取者取者緣取。第一義中不可得故。此義云何。由作者業二俱離故。彼取取者亦如是離。復次此中分別第一義中無實調達取者實取。何以故。以觀取故。譬如耶若達多。如是第一義中亦無無實取者取無實取。亦實不實取立義應知。復次第一義中無實可取為實提婆達多取觀彼取者故。譬如耶若達多取。如是第一義中亦無不實取。為不實取者取。亦實不實取。為亦實不實取者取。立義差別。因及譬喻如先已說。如是不等分別亦應類遮。復次由業作者及取取者。第一義中以性離故。如偈曰。)

 

「またその他のいかなる法もこのように見られるべきである。」

(及餘一切法  亦應如是觀)

『中観荘厳論』63偈

(63) de phyir dngos po 'di dag ni/ /kun rdzob kho na'i mtshan nyid 'dzin/ /
gal te 'di dag don 'dod na/ / de la kho bos ci zhig bya/ /

それゆえ、これらの事物(dharma)は、「ただ世俗のみ」という特徴(lakṣaṇa)を持つ。
もし、〔誰かが〕これら〔の事物〕を”真実の意味”(正義、artha)〔を持つもの〕と受け取るなら、彼にたいして何ができるというのか?(ci zhig bya)

「吉迦夜」還梵案(1)

「吉迦夜」還梵案:Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

プラークリット形: Kittikāya (キッティカーヤ)

サンスクリット形: Kīrtikāya (キールティカーヤ)

 

吉: /kiɪt̚/

迦: /kˠa/

夜: /jiaH/

『般若心経』 釈提婆(シャーキャデーヴァ) 註

 

「深遠なる般若波羅蜜を行じている時、」
(行深般若波羅蜜多時。)

 

般若〔波羅蜜〕は〔奥深く〕底がないので、「深遠なる」という。明瞭に観察して断絶がないのを「行」という。「時」とは、瑜伽者が智慧を用い、理を悟る、〔そのように智慧と理解が〕双運する時である。それゆえ、「深遠なる般若波羅蜜を行じている時」という。
(般若無底。故言深。觀照不絕。所以言行。時者。即是行人運慧悟理。契合之時。故言行深般若波羅蜜多時。)


五蘊がみな空であると明らかに見て、」
(照見五蘊皆空。)

 

五蘊とは、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕のことである。〔「蘊」を〕「蔭」ともいい、「蔭」とは「覆う」という意味である。「蘊」とは「集まり積もる」という意味である。〔この〕「覆う」という性質は移り変わることがない。空性が〔「覆う」性質を〕変えてしまうということはないのである。「覆う」〔性質の〕事物(ダルマ)は生じ滅するからである。すなわち、色〔蘊〕・受〔蘊〕・想〔蘊〕・行〔蘊〕・識〔蘊〕が〔智慧によって〕ただ「覆うもの」、「集まったもの」であると明らかにされ、〔それらは〕無生〔である〕と知り尽くされる。〔このような道理を〕明らかに観察する時、取る〔べき〕ものも、捨てる〔べき〕ものも存在しないと知る。それゆえ、「五蘊がみな空であると明らかに見て、」という。
(五蘊者。即色受想行識也。亦云蔭。蔭者蔭覆之義。蘊者蘊積之義也。然蔭性無遷。空無變改。蔭法生滅故。即色受想行識。他明乃蔭集。已曉即無生。於觀照之時。了無取捨。故照見五蘊皆空。)

 

「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」
(度一切苦厄。)

 

執著があって認識対象を追いかけるものを〔本当の〕心とは呼ばない。それは煩わしく価値のないものである。意に適えば喜びを生じるが、貪欲の心は転じて〔己が身を焼く〕炎となる。これは苦と楽が交互に集起する〔のみである〕。〔これが〕災いであることに何の疑いがあるだろうか?〔しかして、心が〕道に適えば、この〔意の〕門において、様々な苦難〔と出会おうと、心は〕動ずることがない。それゆえ、「一切の苦しみと災いを乗り越えた。」という。
(存情逐境不稱心。乃煩冤。契意生欣。欲心轉熾。此即苦樂交集。厄者何疑。合道之。於此門中。八風不動。故言度一切苦厄。)

 

「シャーリプトラよ、」
(舍利子。)

 

シャーリ〔-〕とは梵語であり、鳥の名前である。こ〔の言葉〕についての翻訳家たち〔の解釈〕は各自ことごとく異なっている。あるいは「秋露子」と訳し、あるものは「眼珠子」、あるものは「身子」とする。これらはすべて誤った説を承けたものである。しかるにシャーリ〔-〕とは、ハッカチョウという鳥がそ〔の意味〕である。シャーリプトラの母は眼がハッカチョウの眼に似ていて、圓満にして明浄であり。また、聡明にして知識が豊富だった。当時の人々はみな〔シャーリプトラの母の〕眼によって、〔彼女であると〕見分けた。それゆえに「シャーリ」と号する。〔シャーリプトラは〕生まれながらにしてすでに、聡明さにおいて母に勝(まさ)っていた。人々は〔シャーリプトラも、その母と〕ともに、〔聡明であることを〕知ったので、シャーリプトラ(シャーリーの子)と呼んだのである*1。「プトラ」とは梵語であって、これを訳すれば「子」である。それゆえ「舍利子」(シャーリーの子)と訳すのである。智慧第一であって、〔釈迦牟尼〕仏に帰依して出家し、阿羅漢果を得、〔釈迦牟尼〕仏と〔法について〕対話した。それゆえ、〔そのように智慧ある仏弟子なので、〕その名を呼ぶのである。
( 舍利者梵音。鳥名也。此翻諸家各悉不同。或云秋露子。或云眼珠子。或云身子。此皆承虗忘說。然舍利者。鴝鵒鳥者是。舍利弗母。眼似鴝鵒眼。圓而明淨。又復聰明多知。于時世人皆識因眼。故號為舍利。既其所生。勝母聰明。世人共識。稱為舍利弗。弗者梵音。此翻為子。故言舍利子。聰明第一。投佛出家。得阿羅漢果。佛與對談。故呼其名。)


「色は空性と異ならない。」
(色不異空。)

 

色は空性より生じ、一瞬一瞬に移り変わって滅する。曇った心〔によって見れば〕、質礙があり、透徹した心で観察すれば、まったく形体なきものとなる。〔ゆえに〕顛倒した心は究極のものでないと知るべきである。凡夫は色が滅したときにはじめて「〔これは〕空なるもの〔である〕」と言うが、菩薩は森羅万象について惑うことなく、色と空性が一体であることを明らかに知る。それゆえ、「色は空性と異ならない。」というのである。
(即色從空而生。念念遷滅。滯心即有質。通情照觀。則畢竟無形。當知妄情非是究竟。凡夫滅色。始得言空。菩薩不妨參羅。了達色空一體。故言色不異空也。)

 

「空性は色と異ならない。」
(空不異色。)

 

空性において色が生じるのであって、〔すなわち、諸々の〕縁が和合すると色という名称が生じる。色は空性によらなければ、変化することもありえない。〔そして、〕衆生が空であること(生空)は〔五蘊の一つである〕色〔蘊〕によらなければ、名称が成立しない。そ〔れら色と空性〕の根源〔的なあり方〕を説明するなら、〔色と空性は〕必ず相互依存である。それゆえ、「空性は色と異ならない。」というのである。

(即空中生色。緣會故名色。緣散故言空。色不因空。不能生長。生空不因色。則不立名。欲顯其源。要須相藉。故言空不異色也。)

 

「色は空性である。」
(色即是空。)

 

色という法(ダルマ)は、虚妄を本質とする。色の自性は空という自性である。色が滅したときはじめて空〔となる〕のではない。それゆえ、「色は空性である。」というのである。
(即色法妄質。色性體空性。不以滅色始空。故言色即是空。)

 

「空性は色である。」
(空即是色。)

 

森羅万象はみな空性より出る。言葉によれば、〔空性において、〕『〔これは〕色〔である〕』ということができる。心を集中して空性について観察すれば、空性には依り所〔である色〕が有ることを見る。どうして空性が色でないだろうか?〔また、〕「私がいる」〔という自我意識を持つ〕人は空なるものと、空ならざるものに執著するが、自我意識がない人にとっては、空なるものも、実在するものもなく、心において、清浄なる円融*2が顕現する。それゆえ、「空性は色である。」というのである。
(萬像參羅。皆從空出。言亦得言即色。注心觀空。見有空體。豈非空即是色。存吾之者。著空不空。忘我之人。無空無有。意顯清混。故言空則是色。)

 

「受・想・行・識もまた同様である。」
(受想行識。亦復如是。)

 

ひとつの蘊(=色蘊)がすでにこのようなものであるので、残りの四つの蘊もまた同様である。それゆえ、「また同様である。」というのである。
(一蔭既爾。餘四亦然。故言亦復如是。)

 

「シャーリプトラよ、諸法の特徴は空性である。」
(舍利子。是諸法相空。)

 

これは以前に説かれたことを重ねて〔言うので〕あって「一切法は等しく空という自性と特徴をもつ」ということを示すのである。
(此則疊前所說。印一切法同空性相。)

 

出典:X26n0526 般若心經註 ( 1 卷) 【中天竺 提婆註】

*1:シャーリプトラの本名はウパティシャ(Upatisya)である。

*2:円融(えんゆう、えんにゅう)とは「〘仏〙 個々のものが、それぞれの立場を保ちながら融和し、さまたげのないこと。完全にとけあっていること。」(大辞林 第三版より

上行菩薩の梵名

一名上行。

viśiṣṭacāritraśca nāma bodhisattvo mahāsattvaḥ,

二名無邊行。

anantacāritraśca nāma bodhisattvo mahāsattvaḥ,

三名淨行。

viśuddhacāritraśca nāma bodhisattvo mahāsattvaḥ, 

四名安立行。

supratiṣṭhitacāritraśca nāma bodhisattvo mahāsattvaḥ |

 

[梵名]

Viśiṣṭacāritra Bodhisattva

ヴィシシュタチャーリトラ菩薩

 

[プラークリット(パーリ語)形]

Visiṭṭhacāritta

ヴィシッタチャーリッタ

 

「すぐれた行いの菩薩」