What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

『染汚経』(Upakkilesa sutta, MN)に説かれる光(obhāsa)について、ニミッタ(samādhi-nimitta)とは何か

ブッダゴーサ註』

So pana therānaṃ natthi, tasmā taṃ pucchituṃ na yuttanti parikammobhāsaṃ pucchati. Obhāsañceva sañjānāmāti parikammobhāsaṃ sañjānāma. Dassanañca rūpānanti dibbacakkhunā rūpadassanañca sañjānāma. Tañca nimittaṃ nappaṭivijjhāmāti tañca kāraṇaṃ na jānāma, yena no obhāso ca rūpadassanañca antaradhāyati.

 

それが長老たちにはない、それゆえ、それを問うて、遍作光が相応しないと問うているのである。「私たちは光をはっきりと知る」とは、「私たちは遍作光をはっきりと知る」ということである。「諸々の色を見る」とは天眼によって色を見ていることを私たちははっきりと知るということである。この相(ニミッタ)を洞察するとは、この因(カーラナ)を知るということであり、それによって、私たちには、光と色を見ることが消失するということである。

 

『ダンマパーラ複註』

Parikammobhāsaṃ pucchatīti dibbacakkhuñāṇe katādhikārattā tassa uppādanatthaṃ parikammobhāsaṃ pucchati. Parikammobhāsanti parikammasamādhinibbattaṃ obhāsaṃ, upacārajjhānasañjanitaṃ obhāsanti attho. Catutthajjhānalābhī hi dibbacakkhuparikammatthaṃ obhāsakasiṇaṃ bhāvetvā upacāre ṭhapito samādhi parikammasamādhi, tattha obhāso parikammobhāsoti vutto.

遍作光について問うているとは、天眼智を志すことから、彼に生じた対象である遍作光について問うているのである。
遍作光とは、遍作定によって発生した光であって、近行禅定によって生じた光という意味である。実に第四禅を得た者は天眼の遍作を目的として、光遍(光のカシナ)を修習して、近行定である、遍作定が住立する。ここにおける光が遍作光と言われる。

 

※取相(uggaha-nimitta)、似相(paṭibhāga-nimitta)

アビダンマの因縁譚

Gāmavāsī sumanadevatthero pana heṭṭhālohapāsāde dhammaṃ parivattento ‘ayaṃ paravādī bāhā paggayha araññe kandanto viya, asakkhikaṃ aḍḍaṃ karonto
viya ca, abhidhamme nidānassa atthibhāvampi na jānātī’ti vatvā nidānaṃ kathento evamāha – ekaṃ samayaṃ bhagavā devesu viharati tāvatiṃsesu pāricchattakamūle
paṇḍukambalasilāyaṃ. Tatra kho bhagavā devānaṃ tāvatiṃsānaṃ abhidhammakathaṃ kathesi – ‘‘kusalā dhammā, akusalā dhammā, abyākatā dhammā’’ti.

 

ある時、世尊は三十三天のパーリッチャッタカ樹の根元の、パンドゥカンバラ岩に住していた。そこで、実に、世尊は三十三天の神々にアビダンマの論議を語られた、「善法あり、不善法あり、無記法あり」と。

(『法集論註』)

『法華経』化城喩品に説かれる「世界の間隙、深き暗黒」

adhimukti jānāsi ca sarvaprāṇināṃ pravartayā cakravaraṃ anuttaram // Saddhp_7.17 //
iti ||
tena khalu punarbhikṣavaḥ samayena tena bhagavatā mahābhijñājñānābhibhuvā tathāgatenārhatāsamyaksaṃbuddhena anuttarāṃ samyaksaṃbodhimabhisaṃbudhyamānena daśasu dikṣvaikaikasyāṃ diśi pañcāśallokadhātukoṭīnayutaśatasahasrāṇi ṣaḍvikāraṃ prakampitānyabhū[ī]van, mahatā cāvabhāsenasphuṭānyabhūvan | sarveṣu ca teṣu lokadhātuṣu yā lokāntarikāstāsu ye akṣaṇāḥ saṃvṛtāandhakāratamisrāḥ yatra imāvapi candrasūryau evaṃmaharddhikau evaṃmahānubhāvauevaṃmahaujaskau ābhayāpyābhāṃ nānubhavataḥ, varṇenāpi varṇaṃ tejasāpi tejo nānubhavataḥ, tāsvapitasmin samaye mahato 'vabhāsasya prādurbhāvo 'bhūt | ye 'pi tāsu lokāntarikāsu sattvā upapannāḥ, te'pyanyonyamevaṃ paśyanti anyonyamevaṃ saṃjānanti - anye 'pi bata bhoḥ sattvāḥ santīhopapannāḥ |anye 'pi bata bhoḥ sattvāḥ santīhopapannāḥ iti | sarveṣu ca teṣu lokadhātuṣu yāni devabhavanānidevavimānāni ca, yāvad brahmalokād ṣaḍvikāraṃ prakampitānyabhūvan, mahatā cāvabhāsenasphuṭānyabhūvan atikramya devānāṃ devānubhāvam | iti hi bhikṣavastasmin samaye teṣu lokadhātuṣumahataḥ pṛthivīcālasya mahataśca audārikasyāvabhāsasya loke prādurbhāvo 'bhūt ||

 


さてまた、比丘たちよ、如来・応供、正等覚者である世尊・大通智勝〔仏〕が、無上正等覚を現証したその時に、十方の、おのおのの方角の、五百と百・千・倶胝・那由多もの世界は、六たび変動しながら震えに震えて、大いなる光によってはっきりと照らされた。

 


そして、それらの一切世界には、“世界の間隙”〔である諸々の場所〕があり、それらは余暇なき、覆われた、諸々の深き暗黒〔の場所〕であって、そこでは、かの月と太陽という、かくも大神変力あり、かくも大威神力あり、かくも大いなる力あるものでさえ、〔その〕光によっても光が把握されざるものとなり、〔その〕光彩によっても光彩が〔把握されざるものとなり〕、〔その〕火によっても、火が把握されざるものとなるのだが、

 


それら〔諸々〕の〔深き暗黒の場所〕においてさえ、その時、大いなる光の顕現が生じた。

 


それらの世界にも衆生たちが存在しているのだが、かれらはお互いにかくのごとく見、お互いにかくのごとくはっきりと知った、「おお、実に此処にも他の衆生たちが居り、存在していたのだな!おお、実に此処にも他の衆生たちが居り、存在していたのだな!」と。

 


そしてこれらすべての世界における、神々の建物と、神々の宮殿ないし、梵天界に至るまでが、六たび変動しながら震えに震えて、神々の威神力を上回る、大いなる光によってはっきりと照らされた。比丘たちよ、実に、このように〔大通智勝仏が成道した〕その時、諸々の世界において、そして偉大なる大地の最頂部と、偉大なる最高部の世界において、〔大いなる光の〕顕現が生じた。

 


(『希有未曾有経』(中部経典 123)を参照。)

「般若心経は間違い?」はどこまで妥当か

・菩薩が阿羅漢に説法しているか?

『般若心経』の釈提婆註は「佛與對談。故呼其名。」と註釈して、般若心経の教説を釈迦牟尼仏舎利弗長老の対話と解釈している。もちろん、スマナサーラ長老は、そのような解釈をしている日本の大乗仏教徒が通例であろうと対談本の中で述べているが(『仏弟子の世間話』)、ここでは明確に経典の説者は釈迦牟尼仏で、対告衆は舎利弗長老だという解釈が明示されている。華厳宗の法蔵の『般若心経略疏』では、「三、明觀行境。謂達見五蘊自性皆空,即二空理,深慧所見也。[…]四、明利益。謂證見真空,苦惱斯盡,當得遠離分段、變易二種生死,證菩提、涅槃究竟樂果,故云度一切苦厄也。」と述べて、観音菩薩仏陀になったあとに舎利弗長老に説法しているという解釈をとっており、ここでも正等覚者から阿羅漢への説法という解釈が取られている。この場合、説法者は観音菩薩だが、法蔵は、冒頭部で人空と法空を悟り涅槃を証して観音仏になっていると解釈している。

すなわち、この二つの場合、菩薩が阿羅漢に法を説示するという解釈は否定されているのである。

(ただし、大本『般若心経』では明確に菩薩が阿羅漢に説法する形式を取っているため、この場合はスマナサーラ長老の批判が完全に当てはまるように思われる。)

 

・空思想では「無い」(na) という言葉は使えないか?

 

>『入中論』第6章34偈

gal te rang gi mtshan nyid brten gyur na/ /de la skur pas dngos po 'jig pa'i phyir/ /
stong nyid dngos po 'jig pa'i rgyur 'gyur na/ /de ni rigs min de phyir dngos yod min/ /

もしも自相が依存して生じるなら、それについて非難することによって事物は消滅してしまうので、
空性が事物を消滅させる因になるが、このことは妥当性がないので事物が存在することはない

svalakṣaṇaṃ ced bhavati pratītya
tasyāpavāde sati bhāvanāśāt |
syāc chūnyatā bhāvavināśahetur
yuktaṃ na caitan na tato ’sti bhāvaḥ || 6.34 (Li Xuezhu 2015)

もし自相が依存して存在するなら、
それを非難することで事物が消滅するだろう。
そして、空性は事物の消滅の原因であるかもしれない。
然るに、このことは妥当性がなく、それゆえ、事物は存在しない。

中観派に属するチャンドラキールティは「それゆえ、事物は存在しない」(na tato sti bhāvaḥ)と述べている。ここに明確に「~は存在しない」(na asti)という表現を見ることができる。

 

 

 

華厳経の六無為

無為法とは何か?虚空、涅槃、択滅、非択滅、縁起、法住性(dharmasthititā)である。[これらが無為法である。]

 

('dus ma byas kyi chos rnams gang zhe na/ nam mkha' dang / mya ngan las 'das pa dang / so sor brtags te 'gog pa dang / so sor ma brtags par 'gog pa dang / rten cing 'brel bar 'byung ba dang / chos kyi gnas nyid de/ 'di dag ni /'dus ma byas pa'i chos so/ )

 

(何等為無為法?所謂:虛空、涅槃、數緣滅、非數緣滅、十二緣起及法界。) - 『六十巻華厳経

 

(何等為無為法?所謂:虛空、涅槃、數緣滅、非數緣滅、緣起住性。) - 『八十巻華厳経

部派分裂に関する大衆部の伝説

舎利弗問経』 400年頃訳

マーユラシュカ王 Māyuraśuka - 仏法帰依王
プルシャミトラ王 Puruṣamitra - 破仏王
クンタパタナ阿羅漢 Kuntapaṭhana 好学阿羅漢

T1465_.24.0900b20: 時有一長老比丘。好於名聞亟立諍論。抄治
T1465_.24.0900b21: 我律開張増廣。迦葉所結名曰大衆律。

「時にある一人の長老比丘がいる。名声を好み、論争を起こし、私(=ブッダ)の律を書き換えて増広しようとする。
すなわちカッサパが合誦する、「大合誦の律」をである。」

『般若心経』釈提婆註

「シャーリプトラよ」

(舍利子。)

 

シャーリとは梵語で、鳥の名前である。この翻訳については諸家で皆同じでない。〔シャーリプトラとは、〕あるいは「秋露子」と〔訳して〕言って、あるいは「眼珠子」と〔訳して〕言い、あるいは「身子」と〔訳して〕言うが、これらは皆間違った説を承けたものである。然るにシャーリとは、ハッカチョウのことである。舎利弗の母は、眼がハッカチョウ〔の眼〕に似て、丸く明浄であった。また頭が賢く〔さまざまなことについて〕多くを知っていたので、当時の世間の人々は皆その〔特徴的な〕眼によって〔彼女であると〕見分けたので、シャーリーという名前であった。そ〔のような母〕から生まれて、母よりも優れて聡明であったので、世間の人々は両者を識別して、シャーリプトラ(シャーリーの子)と称したのである。プトラとは梵語で、子と翻訳する。それゆえ、「舍利子」と言う。〔このシャーリプトラ長老は〕智慧第一で、〔釈迦牟尼〕仏に帰依して出家し、阿羅漢果を得た。〔ここでは、釈迦牟尼〕仏が〔かれと〕ともに〔法について〕対話しているので、その名を呼びかけるのである。

(舍利者梵音。鳥名也。此翻諸家各悉不同。或云秋露子。或云眼珠子。或云身子。此皆承虗忘說。然舍利者。鴝鵒鳥者是。舍利弗母。眼似鴝鵒眼。圓而明淨。又復聰明多知。于時世人皆識因眼。故號為舍利。既其所生。勝母聰明。世人共識。稱為舍利弗。弗者梵音。此翻為子。故言舍利子。聰明第一。投佛出家。得阿羅漢果。佛與對談。故呼其名。)

 

「色は空性と異ならない。」
(色不異空。)

 

色は空性より生じ、一瞬一瞬に移り変わって滅する。妨げられた心〔によって見れば〕、質礙(ぜつげ)があり、智慧ある心で観察すれば、まったく形体なきものとなる。〔それゆえに〕錯乱した心は究極のものでないと知るべきである。凡夫は色が滅したときにはじめて「〔これは〕空なるものである」と言うが、菩薩は森羅万象〔の見かけ〕に惑わされることなく、色と空性が一体であることを明らかに知る。それゆえ、「色は空性と異ならない。」というのである。
(即色從空而生。念念遷滅。滯心即有質。通情照觀。則畢竟無形。當知妄情非是究竟。凡夫滅色。始得言空。菩薩不妨參羅。了達色空一體。故言色不異空也。)

 

「空性は色と異ならない。」
(空不異色。)

 

空性において色が生じ、〔諸々の〕縁が和合すると色という名称〔が生じる〕。色は空性によらなければ、生じることも、住することもありえない。〔言説において〕空性が生じる(=知られる)時、色によらなければ、名称が成立しない。その本性を解き明かせば、〔それらは〕必ず相互依存である。それゆえ、「空性は色と異ならない。」というのである。

(即空中生色。緣會故名色。緣散故言空。色不因空。不能生長。生空不因色。則不立名。欲顯其源。要須相藉。故言空不異色也。)

 

「色は空性である。」
(色即是空。)

 

色という法は、虚妄を本質とする。色の自性は空という自性である。色が滅したときはじめて空〔となる〕のではない。それゆえ、「色は空性である。」というのである。
(即色法妄質。色性體空性。不以滅色始空。故言色即是空。)

 

「空性は色である。」
(空即是色。)

 

森羅万象はみな空性より出る。言葉によれば、『〔これは〕色〔である〕』と言うことが可能である。心を集中して空性について観察すれば、〔空を分別する時にも、〕空性には〔色等の〕拠り所となるものが有ることを見る。どうして空性が色でないだろうか?「私がいる」〔という自我意識を持つ〕人は空なるものと、空ならざるものに執著するが、自我意識がない人にとっては、空なるものも、存在するものもなく、心に、〔色と空性の〕清浄なる円融〔の法〕が顕現している(=色空不二)。それゆえ、「空性は色である。」というのである。
(萬像參羅。皆從空出。言亦得言即色。注心觀空。見有空體。豈非空即是色。存吾之者。著空不空。忘我之人。無空無有。意顯清混。故言空則是色。)

 

「受・想・行・識もまた同様である。」
(受想行識。亦復如是。)

 

ひとつの蘊(=色蘊)がすでにこのようなものであるので、残りの四つの蘊もまた同様である。それゆえ、「また同様である。」というのである。
(一蔭既爾。餘四亦然。故言亦復如是。)

 

「シャーリプトラよ、諸法は空性を特徴とする。」
(舍利子。是諸法相空。)

 

これは、〔ここより〕前の所説(=五蘊皆空)を敷衍するのであって「一切法は等しく空性を特徴とする」ということを示す。
(此則疊前所說。印一切法同空性相。)