What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は浄土真宗本願寺派の菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

『空七十論』自註より 相依関係による生起の否定

ji skad du bshad pa yin zhe na/

mtshan gzhi las mtshan grub mtshan las/ /
mtshan gzhi grub ste rang ma grub/ /
gcig las gcig kyang ma grub ste/ /
ma grub ma grub sgrub byed min/ / (27)

mtshan nyid kyang mtshan gzhi las grub la/ mtshan gzhi yang mtshan nyid las grub pa las rang gi grub pa ma yin no/ /
gcig las gcig kyang ma grub ste/ /phan tshun du yang ma grub bo/ /zhes bshad pa yin no/ /

gang gi phyir rim pa ‘dis mtshan gzhi dang mtshan nyid gnyis grub pa med pa de’i phyir mtshan gzhi dang mtshan nyid ma grub ste/ dngos po ‘di dag grub par byed pa ma yin no/ /

‘dis ni rgyu dang ‘bras bu dang / /
tshor bcas tshor ba po sogs dang/ /
lta po blta bya sogs ci’ang rung / /
de kun ma lus bshad pa yin/ / (28)

 

 

このように説明するのなら、

 所相から能相が成立し、
 能相から所相が成立するのであって、自(みず)から成立するのではない。
 互いが互いによって成立するのではなく、
 成立していない(もの)が成立していない(もの)を成立せしめるのでもない。(27)

能相も所相から成立することについて、所相も能相から成立する故に、自から成立するのではない。
互いが互いによって成立するのではないので、「相依関係」(phan tshun, interrelation)でも成立しない、と述べる。
この次第によって、所相と能相の二つが成立しない。この故に、所相と能相は成立しないし、これらの(成立していない)存在は(何物をも)成立せしめることがないのである。

 これによって、原因と結果と、感受と感受するもの、乃至、見る者と見られるもの等のいずれのものであっても、このすべては余すことなく(不成立と)説明されているのである。(28)

常断二見に対する倶舎論の評価

頌曰:
上二界隨眠 及欲身邊見 彼倶癡無記 此餘皆不善

(ūrdhvam avyākṛtāḥ sarve kāme satkāyadarśanam /
antagrāhaḥ sahābhyāṃ ca mohaḥ śeṣās tv ihā ̍śubhāḥ // <Gokhale 1946>)

論曰(…)身邊二見及相應癡欲界繋者亦無記性。所以者何。此與施等不相違故。爲我當樂現在勤脩施戒等故。執斷邊見能順解脱。故世尊説。於諸外道諸見趣中此見最勝。謂我不有我所亦不有。我當不有我所當不有。又此二見迷自事故。非欲逼害他有情故。若爾貪求天上快樂及起我慢例亦應然。

欲界繋で痴相応の〔自己の〕身体に関する〔常断〕二つの辺見もまた無記である。なぜか?これは布施等と矛盾しないからである。〔常辺の見に執するならば、〕「私は未来の楽のために、現在において布施と持戒等を勤修しよう」と〔考える〕からである。〔また〕断辺の見に執する〔者〕は解脱に順ずる。それゆえ世尊は仰られている、「諸々の外道の諸々の見趣の中ではこの見が最も優れている。すなわち、『私は存在せず、私のものも存在しない。私は未来に存在しないし、私のものも未来に存在しない』と〔いうこれである〕。」また、この〔常断〕二見は自らの存在について迷乱しているが故に、他の衆生を悩害しようと欲しないからである。もしそうであるならば、天上の楽を貪求することや、我〔ありという〕慢を起こす場合もまた同様なるべし。

先軌範師作如是説。倶生身見是無記性。如禽獸等身見現行。若分別生是不善性。餘欲界繋一切隨眠與上相違皆不善性。

〔さて、〕昔の規範師(=唯識論師)はこのように説いている。「倶生(=生来)の有身見は無記である。禽獣等の有身見の現行のごとし。また、分別生(=後天性)の有身見は不善である」と。その他の欲界繋の一切の随眠は先に述べたものと相違するのですべて不善である。

 

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(私的コメント)

仏教とジャイナ教の親近性と、龍樹が『宝行王正論』(1:43-45)において常見を善なるものとする好意的評価から、痴相応の常見を無記と見るのは妥当であろう。しかし痴相応の断見をかくも高く評価するのは違和感を覚える。

断見を説明するために引用された経文自体は、パーリ『増支部』(10-29) Paṭhamakosalasuttaṃにおいてパラレルのものが登場する。龍樹の『宝行王正論』にもまた並行句が存在する(1:26)が、『宝行王正論』ではこの種の断見を最高の邪見とするような誤解を受けやすい処理はされていない(それどころか龍樹は、業と果を否定する虚無論(nāstitādṛṣṭi)を「不善であって悪趣へ行くものであり邪見」として非難している)。高度な断見が涅槃に違背しないので解脱に資するという『倶舎論』の説は、衆賢の『蔵顕宗論』にも受け継がれ、「若起此見我於一切皆不忍受。當知此見不順貪欲隨順無貪。」という経証が追加されている。なぜ「一切の見解を認めない」立場が断見の立場の説明に援用されているかという点については、通常の断見とは異なる高次のものだからと考えられる。すなわち通常の断見は『私は存在する。私のものも存在する。しかしそれらは死後、無に帰する。』という形を取るからであると推測されるからである。

ヴィマラプラバー因縁譚

rdo rje'i rigs kyi dbang bskur bas rigs thams cad rigs gcig tu byed pa la 'jam dpal grags pa rigs ldan du de bzhin gshegs pas lung bstan to/ /

金剛種の灌頂によって一切の種族を一つの種族(=金剛種)となす者について、〔それは〕マンジュシュリーキールティ聖王〔である〕と、如来によって、授記されている。

 

'grel bshad byed pa po pad ma dkar po bdag kyang rigs ldan gnyis par lung bstan to/ /

注釈書作者たる私、プンダリーカも、第二の聖王として〔如来によって〕授記されている。

 

de'i 'og tu bdag gi phyi nas gshin rje mthar byed la sogs pa rnams lung bstan to/

そのあと、私のあとに、ヤマーンタカなどの者たちが〔聖王として〕授記されている。

『染汚経』(Upakkilesa sutta, MN)に説かれる光(obhāsa)について、ニミッタ(samādhi-nimitta)とは何か

ブッダゴーサ註』

So pana therānaṃ natthi, tasmā taṃ pucchituṃ na yuttanti parikammobhāsaṃ pucchati. Obhāsañceva sañjānāmāti parikammobhāsaṃ sañjānāma. Dassanañca rūpānanti dibbacakkhunā rūpadassanañca sañjānāma. Tañca nimittaṃ nappaṭivijjhāmāti tañca kāraṇaṃ na jānāma, yena no obhāso ca rūpadassanañca antaradhāyati.

 

それが長老たちにはない、それゆえ、それを問うて、遍作光が相応しないと問うているのである。「私たちは光をはっきりと知る」とは、「私たちは遍作光をはっきりと知る」ということである。「諸々の色を見る」とは天眼によって色を見ていることを私たちははっきりと知るということである。この相(ニミッタ)を洞察するとは、この因(カーラナ)を知るということであり、それによって、私たちには、光と色を見ることが消失するということである。

 

『ダンマパーラ複註』

Parikammobhāsaṃ pucchatīti dibbacakkhuñāṇe katādhikārattā tassa uppādanatthaṃ parikammobhāsaṃ pucchati. Parikammobhāsanti parikammasamādhinibbattaṃ obhāsaṃ, upacārajjhānasañjanitaṃ obhāsanti attho. Catutthajjhānalābhī hi dibbacakkhuparikammatthaṃ obhāsakasiṇaṃ bhāvetvā upacāre ṭhapito samādhi parikammasamādhi, tattha obhāso parikammobhāsoti vutto.

遍作光について問うているとは、天眼智を志すことから、彼に生じた対象である遍作光について問うているのである。
遍作光とは、遍作定によって発生した光であって、近行禅定によって生じた光という意味である。実に第四禅を得た者は天眼の遍作を目的として、光遍(光のカシナ)を修習して、近行定である、遍作定が住立する。ここにおける光が遍作光と言われる。

 

※取相(uggaha-nimitta)、似相(paṭibhāga-nimitta)

アビダンマの因縁譚

Gāmavāsī sumanadevatthero pana heṭṭhālohapāsāde dhammaṃ parivattento ‘ayaṃ paravādī bāhā paggayha araññe kandanto viya, asakkhikaṃ aḍḍaṃ karonto
viya ca, abhidhamme nidānassa atthibhāvampi na jānātī’ti vatvā nidānaṃ kathento evamāha – ekaṃ samayaṃ bhagavā devesu viharati tāvatiṃsesu pāricchattakamūle
paṇḍukambalasilāyaṃ. Tatra kho bhagavā devānaṃ tāvatiṃsānaṃ abhidhammakathaṃ kathesi – ‘‘kusalā dhammā, akusalā dhammā, abyākatā dhammā’’ti.

 

ある時、世尊は三十三天のパーリッチャッタカ樹の根元の、パンドゥカンバラ岩に住していた。そこで、実に、世尊は三十三天の神々のためにアビダンマの論議を語られた、「善法あり、不善法あり、無記法あり」と。

(『法集論註』)

『法華経』化城喩品に説かれる「世界の間隙、深き暗黒」

adhimukti jānāsi ca sarvaprāṇināṃ pravartayā cakravaraṃ anuttaram // Saddhp_7.17 //
iti ||
tena khalu punarbhikṣavaḥ samayena tena bhagavatā mahābhijñājñānābhibhuvā tathāgatenārhatāsamyaksaṃbuddhena anuttarāṃ samyaksaṃbodhimabhisaṃbudhyamānena daśasu dikṣvaikaikasyāṃ diśi pañcāśallokadhātukoṭīnayutaśatasahasrāṇi ṣaḍvikāraṃ prakampitānyabhū[ī]van, mahatā cāvabhāsenasphuṭānyabhūvan | sarveṣu ca teṣu lokadhātuṣu yā lokāntarikāstāsu ye akṣaṇāḥ saṃvṛtāndhakāratamisrāḥ yatra imāvapi candrasūryau evaṃmaharddhikau evaṃmahānubhāvauevaṃmahaujaskau ābhayāpyābhāṃ nānubhavataḥ, varṇenāpi varṇaṃ tejasāpi tejo nānubhavataḥ, tāsvapitasmin samaye mahato 'vabhāsasya prādurbhāvo 'bhūt | ye 'pi tāsu lokāntarikāsu sattvā upapannāḥ, te'pyanyonyamevaṃ paśyanti anyonyamevaṃ saṃjānanti - anye 'pi bata bhoḥ sattvāḥ santīhopapannāḥ |anye 'pi bata bhoḥ sattvāḥ santīhopapannāḥ iti | sarveṣu ca teṣu lokadhātuṣu yāni devabhavanānidevavimānāni ca, yāvad brahmalokād ṣaḍvikāraṃ prakampitānyabhūvan, mahatā cāvabhāsenasphuṭānyabhūvan atikramya devānāṃ devānubhāvam | iti hi bhikṣavastasmin samaye teṣu lokadhātuṣumahataḥ pṛthivīcālasya mahataśca audārikasyāvabhāsasya loke prādurbhāvo 'bhūt ||

 


さてまた、比丘たちよ、如来・応供、正等覚者である世尊・大通智勝〔仏〕が、無上正等覚を現証したその時に、十方の、おのおのの方角の、五百と百・千・倶胝・那由多もの世界は、六たび変動しながら震えに震えて、大いなる光によってはっきりと照らされた。

 


そして、それらの一切世界には、“世界の間隙”〔である諸々の場所〕があり、それらは余暇なき、覆われた、諸々の深き暗黒〔の場所〕であって、そこでは、かの月と太陽という、かくも大神変力あり、かくも大威神力あり、かくも大いなる力あるものでさえ、〔その〕光によっても光が把握されざるものとなり、〔その〕光彩によっても光彩が〔把握されざるものとなり〕、〔その〕火によっても、火が把握されざるものとなるのだが、

 


それら〔諸々〕の〔深き暗黒の場所〕においてさえ、その時、大いなる光の顕現が生じた。

 


それらの世界にも衆生たちが存在しているのだが、かれらはお互いにかくのごとく見、お互いにかくのごとくはっきりと知った、「おお、他にも実に衆生たちが存在しており、此処に生じていたのだな!おお、他にも実に衆生たちが存在しており、此処に生じていたのだな!」と。

 


そしてこれらすべての世界における、神々の建物と、神々の宮殿ないし、梵天界に至るまでが、六たび変動しながら震えに震えて、神々の威神力を上回る、大いなる光によってはっきりと照らされた。比丘たちよ、実に、このように〔大通智勝仏が成道した〕その時、諸々の世界において、そして偉大なる大地の最頂部と、偉大なる最高部の世界において、〔大いなる光の〕顕現が生じた。

 


(『希有未曾有経』(中部経典 123)を参照。)

「空即是色」は間違いか?

・「空即是色」は間違いか?

「rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam」あるいは「rūpaṃ śūnyaṃ, śūnyataiva rūpam」が形式論理的な範疇論からは解釈できない文章であるのは間違いない。

 この「色即是空、空即是色」という表現に関しては、チベットや中国で多くの解釈が錯綜している。香象大師法蔵は、この一連の箇所を「見色即空,成大智而不住生死;見空即色,成大悲而不住涅槃;以色、空境不二,悲、智念不殊,成無住處行。」と注釈し、輪廻にも涅槃にも留まらない無住処涅槃と結びつけて解釈している。十四世紀のチベットの学匠gnas drug pa(ネードゥクパ)も「輪廻という辺と涅槃という辺を離れる」という、ほぼ同様の理解を示す。一方、釈提婆はこれとは別の解釈を提示している。蔵訳に注釈書が残るジュニャーナミトラはさらに異なる解釈を示す。このように、般若心経の注釈者たちは、字義通りに解釈するのではなく、一つの表現から様々な解釈を導き出すのが通例である。スマナサーラ長老の批判を「形式論理的な視点から見て間違い」と定式化するならばその批判は妥当であろう。しかし、「空即是色」を形式論理的な思考によらない、一個の文章表現とするならば、間違いという指摘は的を失するものとなる。

 

【結論】

・五部のニカーヤにおいても、文字通りの理解が非常に困難な経典が多数存在する。それらは注釈文献によって解釈されるのである。ニカーヤの諸経典が「間違い」でないのと同様に、「空即是色」の表現を間違いと断定することはできない。上座部にあっても、注釈書の役割を否定するならば教学が確立できない以上、注釈書の存在を否定した字義通りの解釈は、ある特定の宗教や宗派の教学形成において殆ど不可能である。(字義通りに解釈するというのも、注釈者たちが決定することである。)

 

【補論】

・空思想では「無い」(na) という言葉は使えないか?

 

>『入中論』第6章34偈

gal te rang gi mtshan nyid brten gyur na/ /de la skur pas dngos po 'jig pa'i phyir/ /
stong nyid dngos po 'jig pa'i rgyur 'gyur na/ /de ni rigs min de phyir dngos yod min/ /

もしも自相〔をもつ物〕が依存して生じるなら、それについて非難することによって事物は消滅してしまうので、
空性が事物を消滅させる因になるが、このことは妥当性がないので事物が存在することはない。

svalakṣaṇaṃ ced bhavati pratītya
tasyāpavāde sati bhāvanāśāt |
syāc chūnyatā bhāvavināśahetur
yuktaṃ na caitan na tato ’sti bhāvaḥ || 6.34 (Li Xuezhu 2015)

もし自相〔をもつ物〕が依存して存在するなら、
それを非難することで事物が消滅するだろう。
〔そして、〕空性は事物の消滅の原因であるかもしれない。
然るに、このことは妥当性がなく、それゆえ、事物は存在しない。

中観派の学匠であるチャンドラキールティは空思想を論ずる場面で、「それゆえ、事物は存在しない」(na tato sti bhāvaḥ)と述べている。astiは省略可能な動詞であり、「na asti」と 「na〜(名詞主格)」は同等な表現である。そして、此処には明確に「~は無い」(na)という表現を見ることができる。ここでの「事物」(bhāva)は「色」(rūpa)などと置き換えることが可能な無自性(niḥsvabhāva)の法である。それゆえ、空思想を論ずる場合に「無」(na)は使えないというスマナサーラ長老の批判は文献学的にみて再検討の余地がある。

 

【結論】

・チャンドラキールティの『入中論』の一例からも、空思想において無(na)を使うことは可能である。