・菩薩が阿羅漢に説法しているか?
『般若心経』の釈提婆註は「佛與對談。故呼其名。」と註釈して、般若心経の教説を釈迦牟尼仏と舎利弗長老の対話と解釈している。もちろん、スマナサーラ長老は、そのような解釈をしている日本の大乗仏教徒が通例であろうと対談本の中で述べているが(『仏弟子の世間話』)、ここでは明確に経典の説者は釈迦牟尼仏で、対告衆は舎利弗長老だという解釈が明示されている。華厳宗の法蔵の『般若心経略疏』では、「三、明觀行境。謂達見五蘊自性皆空,即二空理,深慧所見也。[…]四、明利益。謂證見真空,苦惱斯盡,當得遠離分段、變易二種生死,證菩提、涅槃究竟樂果,故云度一切苦厄也。」と述べて、観音菩薩が仏陀になったあとに舎利弗長老に説法しているという解釈をとっており、ここでも正等覚者から阿羅漢への説法という解釈が取られている。この場合、説法者は観音菩薩だが、法蔵は、冒頭部で人空と法空を悟り涅槃を証して観音仏になっていると解釈している。
すなわち、この二つの場合、菩薩が阿羅漢に法を説示するという解釈は否定されているのである。
(ただし、大本『般若心経』では明確に菩薩が阿羅漢に説法する形式を取っているため、この場合はスマナサーラ長老の批判が完全に当てはまるように思われる。)
・空思想では「無い」(na) という言葉は使えないか?
>『入中論』第6章34偈
gal te rang gi mtshan nyid brten gyur na/ /de la skur pas dngos po 'jig pa'i phyir/ /
stong nyid dngos po 'jig pa'i rgyur 'gyur na/ /de ni rigs min de phyir dngos yod min/ /もしも自相が依存して生じるなら、それについて非難することによって事物は消滅してしまうので、
空性が事物を消滅させる因になるが、このことは妥当性がないので事物が存在することはないsvalakṣaṇaṃ ced bhavati pratītya
tasyāpavāde sati bhāvanāśāt |
syāc chūnyatā bhāvavināśahetur
yuktaṃ na caitan na tato ’sti bhāvaḥ || 6.34 (Li Xuezhu 2015)もし自相が依存して存在するなら、
それを非難することで事物が消滅するだろう。
そして、空性は事物の消滅の原因であるかもしれない。
然るに、このことは妥当性がなく、それゆえ、事物は存在しない。
中観派に属するチャンドラキールティは「それゆえ、事物は存在しない」(na tato ’sti bhāvaḥ)と述べている。ここに明確に「~は存在しない」(na asti)という表現を見ることができる。