What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

方便心論と六大説(再掲)

[No.24363] 方便心論と六大説 投稿者:pocket   投稿日:2022/04/26(Tue) 20:58:48

私pocketは、『方便心論』が「果同」の所で虚空とアートマンを五大所成としているところがずっと腑に落ちないままでいました。

原文はこのようなものです。
「復次五大成者皆悉無常。虚空與我亦五大成。云何言常。是名果同。」

([私訳]:またつぎに、〔およそ〕五大より成るものは、無常であり、虚空とアートマンもまた五大より成るのだから、どうして〔それらが〕常住でしょうか、というこのようなことを「同じ結果」(果同)と名付けます)

ここからpocketは石飛先生と何度か議論を重ねました。

石飛先生は「ほっとけいじ板」でこのように仰いました:

> 弘法大師は、龍樹を知って、こうしたのかしらね。
> 他でも出てきますよね。

これを受けて、「あー弘法大師なら龍樹から来ててもおかしくないなー」と、私はなんとなく六大について調べてみました。

すると、そもそも六大は龍樹菩薩当時の時代のインドですでに説かれていたようだということが分かりました。

『宝行王正論』 1:80偈にはこうあります。

> skyes bu sa min chu ma yin//
> me min rlung min nam mkha' min//
> rnam shes ma yin kun min na//
> de las gzhan don skyes bu gang//80//

> T1656_.32.0495a16:     四大及空識 一聚倶非人    
> T1656_.32.0495a17:     若合離非人 云何執人有

> 「プドガラは地でもなく、水でもなく、
> 火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、
> 識でもなく、〔これら〕すべて〔を合わせたものでも、これらから離れたもの〕でもないならば、
> 一体、他の何がプドガラであろうか。」

以上の偈だけで龍樹菩薩が六大を知っていたことがハッキリしました。
弘法大師の説は正にインドの伝統を受けた正統なものだったようです)

では、なぜ六大説を知っている龍樹菩薩があそこで五大成と説いたか。
虚空はともかくアートマンまで物質的要素たる五大から成るというのは「そんなこと説いてるアートマン論者って本当にいるのかな?」という疑問を生じさせる、極めて奇妙な説です。

ここで、龍樹菩薩は六大説を知っていたのだから、「五」は「六」の誤写であり、「六大成」が正しい文だとすると一応、それらしい解釈になります。

つまり、
> 復次六大成者皆悉無常。虚空與我亦六大成。云何言常。是名果同。
ということになります。

梶山先生は五大を五分と解釈すべきだとされましたが、『宝行王正論』によれば、六大と読まねばならないことになります。
そして、これはアートマンの常住性の論証に虚空の常住性を持ち出した相手への論駁と解釈すると意味がはっきり通ります。
(通るかな、ちょっと自信がないですが。ともかくアートマンが五大から成るという『方便心論』の龍樹作を疑わしめる奇妙な説は会通されることになります。)

さて、ここで文献学的な知見を援用したいと思います。

室屋(2016)「漢訳『方便心論』の金剛寺本と興聖寺本をめぐって」
http://id.nii.ac.jp/1153/00000349/
によれば、
『方便心論』におけるジャイナ教の説明の箇所において、nirjarAの訳語が「無漏」「無差」「無漏差」というヴァリアントを持ち、また、「差」は実際には「老」に形がよく似た異体字である「羊+匕」が使われていることから、
「無差」とはnirjarAの直訳たる「無老」の誤写である、という可能性が提示されています。

非常に知的好奇心をそそる説であると共に、石飛先生の後の本がこれを反映する必要に迫られるような、重要な箇所でなかったことが惜しまれます。
なにしろジャイナ教説の基本的な解説ですからね。
そもそも宇井伯寿先生の時代から、nirjarAという正しい意味は解読されていましたし。

さて、室屋(2016)は「五大所成」についてヴァリアントを提示していませんが、
北魏という異文化が咲き乱れる時代に翻訳された『方便心論』の祖本がそのような形の漢字を使うものであった以上、
『方便心論』の読解には慎重にならざるを得ません。文章そのままを受け取ると龍樹菩薩を誤解する恐れが出てくるのです。
特に方便心論はサンスクリット本、チベット訳ともに確認されておらず、漢文だけで読み解いていかなければなりません。
そこで誤写、誤伝の可能性を十分考慮した大胆な批判的校訂(梶山雄一先生のような)が求められることになるのは当然ですし、
実際、石飛先生も大正蔵を尊重しつつ、宇井、梶山両氏による校訂を一部ですが受け入れています。

以上のことから、「五大成」→「六大成」は決して荒唐無稽ではないということが示されたと思います。少なくとも、私pocketはそう信じております。

さて、「六大成」→「五大成」への誤伝の経路ですが、
『方便心論』の「五大成」の祖型において、「五六大成」という形を想定することも可能性の一つとして想定できると思います。

つまり「五つまたは六つの要素から成るもの」という意味の原文を想定するのです。つまり「虚空とアートマンもまた五つまたは六つの要素から成る」という文章となります。
このような文章ならば「五六大成」と訳され得るでしょう。

「五六大成」という文章は明らかに不自然です。
テクストを見たお坊さんはこう思うでしょう、「五大なのか六大なのかはっきりしなさいよ」と。

ここで「五六大成」→「五大大成」と→「五大成」という誤伝の経路を想定できます。

ただし「五大成」にはnirjarAのように「無漏」「無差」「無漏差」という異文が錯綜していないので、あくまで解釈のひとつですが。。。

以上が私がマニカナで石飛先生の学恩を被って、『方便心論』の読解において提示したい新しい仮説です。

私はプロの学者でも何でもないので、このマニカナ道場で発表させて頂きました。道場主である石飛道子先生に感謝しつつ、本稿を終わります。

ブッダサーサナン・チラン・ティッタトゥ!!
(仏の教えがいつまでも存続しますように)

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以上の文章は石飛道子先生の個人サイト「マニカナ」において私が行った投稿の再掲です。pocketというのは本ブログの管理者Tatsuru HAYAMIが「マニカナ」で用いるハンドルネームです。