What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

『般若心経』釈提婆註

「シャーリプトラよ」

(舍利子。)

 

シャーリとは梵語で、鳥の名前である。この翻訳については諸家で皆同じでない。〔シャーリプトラとは、〕あるいは「秋露子」と〔訳して〕言って、あるいは「眼珠子」と〔訳して〕言い、あるいは「身子」と〔訳して〕言うが、これらは皆間違った説を承けたものである。然るにシャーリとは、ハッカチョウのことである。舎利弗の母は、眼がハッカチョウ〔の眼〕に似て、丸く明浄であった。また頭が賢く〔さまざまなことについて〕多くを知っていたので、当時の世間の人々は皆その〔特徴的な〕眼によって〔彼女であると〕見分けたので、シャーリーという名前であった。そ〔のような母〕から生まれて、母よりも優れて聡明であったので、世間の人々は両者を識別して、シャーリプトラ(シャーリーの子)と称したのである。プトラとは梵語で、子と翻訳する。それゆえ、「舍利子」と言う。〔このシャーリプトラ長老は〕智慧第一で、〔釈迦牟尼〕仏に帰依して出家し、阿羅漢果を得た。〔ここでは、釈迦牟尼〕仏が〔かれと〕ともに〔法について〕対話しているので、その名を呼びかけるのである。

(舍利者梵音。鳥名也。此翻諸家各悉不同。或云秋露子。或云眼珠子。或云身子。此皆承虗忘說。然舍利者。鴝鵒鳥者是。舍利弗母。眼似鴝鵒眼。圓而明淨。又復聰明多知。于時世人皆識因眼。故號為舍利。既其所生。勝母聰明。世人共識。稱為舍利弗。弗者梵音。此翻為子。故言舍利子。聰明第一。投佛出家。得阿羅漢果。佛與對談。故呼其名。)

 

「色は空性と異ならない。」
(色不異空。)

 

色は空性より生じ、一瞬一瞬に移り変わって滅する。妨げられた心〔によって見れば〕、質礙(ぜつげ)があり、智慧ある心で観察すれば、まったく形体なきものとなる。〔それゆえに〕錯乱した心は究極のものでないと知るべきである。凡夫は色が滅したときにはじめて「〔これは〕空なるものである」と言うが、菩薩は森羅万象〔の見かけ〕に惑わされることなく、色と空性が一体であることを明らかに知る。それゆえ、「色は空性と異ならない。」というのである。
(即色從空而生。念念遷滅。滯心即有質。通情照觀。則畢竟無形。當知妄情非是究竟。凡夫滅色。始得言空。菩薩不妨參羅。了達色空一體。故言色不異空也。)

 

「空性は色と異ならない。」
(空不異色。)

 

空性において色が生じ、〔諸々の〕縁が和合すると色という名称〔が生じる〕。色は空性によらなければ、生じることも、住することもありえない。〔言説において〕空性が生じる(=知られる)時、色によらなければ、名称が成立しない。その本性を解き明かせば、〔それらは〕必ず相互依存である。それゆえ、「空性は色と異ならない。」というのである。

(即空中生色。緣會故名色。緣散故言空。色不因空。不能生長。生空不因色。則不立名。欲顯其源。要須相藉。故言空不異色也。)

 

「色は空性である。」
(色即是空。)

 

色という法は、虚妄を本質とする。色の自性は空という自性である。色が滅したときはじめて空〔となる〕のではない。それゆえ、「色は空性である。」というのである。
(即色法妄質。色性體空性。不以滅色始空。故言色即是空。)

 

「空性は色である。」
(空即是色。)

 

森羅万象はみな空性より出る。言葉によれば、『〔これは〕色〔である〕』と言うことが可能である。心を集中して空性について観察すれば、〔空を分別する時にも、〕空性には〔色等の〕拠り所となるものが有ることを見る。どうして空性が色でないだろうか?「私がいる」〔という自我意識を持つ〕人は空なるものと、空ならざるものに執著するが、自我意識がない人にとっては、空なるものも、存在するものもなく、心に、〔色と空性の〕清浄なる円融〔の法〕が顕現している(=色空不二)。それゆえ、「空性は色である。」というのである。
(萬像參羅。皆從空出。言亦得言即色。注心觀空。見有空體。豈非空即是色。存吾之者。著空不空。忘我之人。無空無有。意顯清混。故言空則是色。)

 

「受・想・行・識もまた同様である。」
(受想行識。亦復如是。)

 

ひとつの蘊(=色蘊)がすでにこのようなものであるので、残りの四つの蘊もまた同様である。それゆえ、「また同様である。」というのである。
(一蔭既爾。餘四亦然。故言亦復如是。)

 

「シャーリプトラよ、諸法は空性を特徴とする。」
(舍利子。是諸法相空。)

 

これは、〔ここより〕前の所説(=五蘊皆空)を敷衍するのであって「一切法は等しく空性を特徴とする」ということを示す。
(此則疊前所說。印一切法同空性相。)