What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

臨済宗における釈尊成道の感興偈について

 

臨済宗で多用される釈尊成道の感興偈、「奇なるかな奇なるかな、一切衆生悉く皆如来智慧、徳相を具有す、ただ妄想執着あるゆえに証得せず」は、そのままの形ではいかなる経典にも見出されない。しかし、『八十巻本華厳経』には類似の内容を説く教説が散見される。本偈は同経の「爾時如來。以無障礙。清淨智眼。普觀法界一切衆生而作是言。奇哉奇哉。此諸衆生。云何具有如來智慧。愚癡迷惑。不知不見。我當教以聖道。令其永離妄想執著。」と「復次佛子。如來智慧。無處不至。何以故。無一衆生。而不具有如來智慧。但以妄想顛倒執著。而不證得。」の合成と考えられる。

特に後者を基礎にして、「無一衆生。而不具有如來智慧。」の部分を自然な漢文として、同意趣の「一切衆生具有如來智慧」に改変し、前者の「奇哉奇哉」を加えて感嘆の言葉としたものに見える。

これに釈尊成道の偈という文脈を与えたのは大正大蔵経による限り、宗密あるいは大慧宗杲である。この偈は、主に禅の語録に頻出する。

 

ここで宗密を嚆矢と断定しないのは、彼の主著『原人論』には「故華嚴經云。佛子。無一衆生而不具有如來智慧。但以妄想執著而不證得。」、「次後又云。爾時如來普觀法界一切衆生。而作是言。奇哉奇哉。此諸衆生。云何具有如來智慧迷惑不見。我當教以聖道。令其永離妄想。」とほぼ正しく引用されているからであり、問題の感興偈が登場する『註華厳法界観門』が宗密の真撰であるか否かには若干の疑問が残るためである。

 

 

サミッディ経(SN 1-22)

語られるべきものについての想念を抱く衆生たちは、語られるべきものに対して依止している。

Akkheyyasaññino sattā, akkheyyasmiṃ patiṭṭhitā;

語られるべきものを遍知しないならば、死の束縛へと至る。
Akkheyyaṃ apariññāya, yogamāyanti maccuno.

しかして語られるべきものを遍知すれば、語る者は〔そのことについて〕構想することがない、
Akkheyyañca pariññāya, akkhātāraṃ na maññati

実にそれ(語る者)にとってそれ(語られるべきもの)は存在しないのである、として。それ(語る者)によって言われるべきところのものは、それ(遍知した人)にとって存在しない。
Tañhi tassa na hotīti, yena naṃ vajjā na tassa atthi

夜叉よ、もしも、あなたが〔語られるべきものを〕識知しているならば、〔語られるべきものについて〕言ってみなさい。
Sace vijānāsi vadehi yakkhā’’ti [yakkhīti (pī. ka.)].

説一切有部における戯論(プラパンチャ)

「問う。戯論(プラパンチャ)には渇愛戯論(tṛṣṇāprapañca)と見戯論(dṛṣṭiprapañca)の二種あるが、何の無量心が何の戯論の対治となるのか?」

 

(問戲論有二種。一愛戲論。二見戲論。何無量。對治何戲論耶。)

 

「答える。無量心(apramāṇya)は諸煩悩(kleśāḥ)を断つことはできず、ただ〔煩悩を〕鎮伏するだけか、あるいは〔煩悩が〕転起することから遠ざけるだけである。〔鎮伏等の作用の故に、〕一時的には四種〔の無量心〕すべてが渇愛の対治であり、一時的には四種〔の無量心〕すべてが悪見の対治である。

 

もし四種の近対治によって語るならば、見行者(dṛṣṭicarita)〔の性質ある者〕は、瞋恚が多いゆえに、慈と悲は、見戯論にとっての近対治(=対治に近しいもの)というべきであり、愛行者(tṛṣṇācarita)〔の性質ある者〕は、愛着(anubandha)が多いゆえに、喜と捨は、渇愛戯論にとっての近対治というべきである。

 

ある人〔々〕は、慈と悲が渇愛戯論の近対治となると説き、喜と捨が見戯論の近対治となると説く。」

 

(答無量不能斷諸煩惱。但能制伏。或令轉遠。有時四種皆對治愛。有時四種皆對治見。若依四種近對治說。應言慈悲近對治見戲論。以見行者多瞋恚故。喜捨近對治愛戲論。以愛行者多親附故。有作是說。慈悲近對治愛戲論。喜捨近對治見戲論。)

上座部における戯論(パパンチャ)

渇愛、慢、見という諸々の障害(パパンチャ)が存在しないので無戯論(という)」
“Taṇhāmānadiṭṭhipapañcānaṃ abhāvena nippapañcaṃ”(相応部註)

 

「比丘たちよ、無漏無漏に向かう道を私は説く。それを聞きなさい。…比丘たちよ、無戯論無戯論に向かう道を私は説く。それを聞きなさい。」“Anāsavañca vo, bhikkhave, desessāmi anāsavagāmiñca maggaṃ…nippapañcañca vo, bhikkhave, desessāmi nippapañcagāmiñca maggaṃ. Taṃ suṇātha.” - 『無漏経』(Anāsavādisutta)

龍樹と六大説

『宝行王正論』 1:80偈

skyes bu sa min chu ma yin//
me min rlung min nam mkha' min//
rnam shes ma yin kun min na//
de las gzhan don skyes bu gang//80//

T1656_.32.0495a16: 四大及空識 一聚倶非人
T1656_.32.0495a17: 若合離非人 云何執人有

「プドガラは地でもなく、水でもなく、
火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、
識でもなく、〔これら〕すべて〔を合わせたもの〕でもないならば、
これより他のものであるプドガラとは〔一体〕何であろうか。」

不生と滅

『宝行王正論』4:86
anutpādo mahāyāne pareṣāṃ śūnyatā kṣayaḥ |
kṣayānutpādāyoś caikyam arthataṃ kṣamyatāṃ yataḥ ||
空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。


アジタミトラ註

skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「劫(という長い時間)に渡って住することが成立しないだけ」(刹那滅)という密意である。

方便心論と六大説(再掲)

[No.24363] 方便心論と六大説 投稿者:pocket   投稿日:2022/04/26(Tue) 20:58:48

私pocketは、『方便心論』が「果同」の所で虚空とアートマンを五大所成としているところがずっと腑に落ちないままでいました。

原文はこのようなものです。
「復次五大成者皆悉無常。虚空與我亦五大成。云何言常。是名果同。」

([私訳]:またつぎに、〔およそ〕五大より成るものは、無常であり、虚空とアートマンもまた五大より成るのだから、どうして〔それらが〕常住でしょうか、というこのようなことを「同じ結果」(果同)と名付けます)

ここからpocketは石飛先生と何度か議論を重ねました。

石飛先生は「ほっとけいじ板」でこのように仰いました:

> 弘法大師は、龍樹を知って、こうしたのかしらね。
> 他でも出てきますよね。

これを受けて、「あー弘法大師なら龍樹から来ててもおかしくないなー」と、私はなんとなく六大について調べてみました。

すると、そもそも六大は龍樹菩薩当時の時代のインドですでに説かれていたようだということが分かりました。

『宝行王正論』 1:80偈にはこうあります。

> skyes bu sa min chu ma yin//
> me min rlung min nam mkha' min//
> rnam shes ma yin kun min na//
> de las gzhan don skyes bu gang//80//

> T1656_.32.0495a16:     四大及空識 一聚倶非人    
> T1656_.32.0495a17:     若合離非人 云何執人有

> 「プドガラは地でもなく、水でもなく、
> 火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、
> 識でもなく、〔これら〕すべて〔を合わせたものでも、これらから離れたもの〕でもないならば、
> 一体、他の何がプドガラであろうか。」

以上の偈だけで龍樹菩薩が六大を知っていたことがハッキリしました。
弘法大師の説は正にインドの伝統を受けた正統なものだったようです)

では、なぜ六大説を知っている龍樹菩薩があそこで五大成と説いたか。
虚空はともかくアートマンまで物質的要素たる五大から成るというのは「そんなこと説いてるアートマン論者って本当にいるのかな?」という疑問を生じさせる、極めて奇妙な説です。

ここで、龍樹菩薩は六大説を知っていたのだから、「五」は「六」の誤写であり、「六大成」が正しい文だとすると一応、それらしい解釈になります。

つまり、
> 復次六大成者皆悉無常。虚空與我亦六大成。云何言常。是名果同。
ということになります。

梶山先生は五大を五分と解釈すべきだとされましたが、『宝行王正論』によれば、六大と読まねばならないことになります。
そして、これはアートマンの常住性の論証に虚空の常住性を持ち出した相手への論駁と解釈すると意味がはっきり通ります。
(通るかな、ちょっと自信がないですが。ともかくアートマンが五大から成るという『方便心論』の龍樹作を疑わしめる奇妙な説は会通されることになります。)

さて、ここで文献学的な知見を援用したいと思います。

室屋(2016)「漢訳『方便心論』の金剛寺本と興聖寺本をめぐって」
http://id.nii.ac.jp/1153/00000349/
によれば、
『方便心論』におけるジャイナ教の説明の箇所において、nirjarAの訳語が「無漏」「無差」「無漏差」というヴァリアントを持ち、また、「差」は実際には「老」に形がよく似た異体字である「羊+匕」が使われていることから、
「無差」とはnirjarAの直訳たる「無老」の誤写である、という可能性が提示されています。

非常に知的好奇心をそそる説であると共に、石飛先生の後の本がこれを反映する必要に迫られるような、重要な箇所でなかったことが惜しまれます。
なにしろジャイナ教説の基本的な解説ですからね。
そもそも宇井伯寿先生の時代から、nirjarAという正しい意味は解読されていましたし。

さて、室屋(2016)は「五大所成」についてヴァリアントを提示していませんが、
北魏という異文化が咲き乱れる時代に翻訳された『方便心論』の祖本がそのような形の漢字を使うものであった以上、
『方便心論』の読解には慎重にならざるを得ません。文章そのままを受け取ると龍樹菩薩を誤解する恐れが出てくるのです。
特に方便心論はサンスクリット本、チベット訳ともに確認されておらず、漢文だけで読み解いていかなければなりません。
そこで誤写、誤伝の可能性を十分考慮した大胆な批判的校訂(梶山雄一先生のような)が求められることになるのは当然ですし、
実際、石飛先生も大正蔵を尊重しつつ、宇井、梶山両氏による校訂を一部ですが受け入れています。

以上のことから、「五大成」→「六大成」は決して荒唐無稽ではないということが示されたと思います。少なくとも、私pocketはそう信じております。

さて、「六大成」→「五大成」への誤伝の経路ですが、
『方便心論』の「五大成」の祖型において、「五六大成」という形を想定することも可能性の一つとして想定できると思います。

つまり「五つまたは六つの要素から成るもの」という意味の原文を想定するのです。つまり「虚空とアートマンもまた五つまたは六つの要素から成る」という文章となります。
このような文章ならば「五六大成」と訳され得るでしょう。

「五六大成」という文章は明らかに不自然です。
テクストを見たお坊さんはこう思うでしょう、「五大なのか六大なのかはっきりしなさいよ」と。

ここで「五六大成」→「五大大成」と→「五大成」という誤伝の経路を想定できます。

ただし「五大成」にはnirjarAのように「無漏」「無差」「無漏差」という異文が錯綜していないので、あくまで解釈のひとつですが。。。

以上が私がマニカナで石飛先生の学恩を被って、『方便心論』の読解において提示したい新しい仮説です。

私はプロの学者でも何でもないので、このマニカナ道場で発表させて頂きました。道場主である石飛道子先生に感謝しつつ、本稿を終わります。

ブッダサーサナン・チラン・ティッタトゥ!!
(仏の教えがいつまでも存続しますように)

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以上の文章は石飛道子先生の個人サイト「マニカナ」において私が行った投稿の再掲です。pocketというのは本ブログの管理者Tatsuru HAYAMIが「マニカナ」で用いるハンドルネームです。