What's the matter? No matter - 仏教ブログ

個人的趣味で仏教を勉強するためのブログです。ブログ主は菩提寺を除いて特定の宗教団体と関わりを持っていません。

聖者(ariya)の作悪について(スッタニパータ註 宝経部分より)

Tassattho – so dassanasampanno kiñcāpi satisammosena pamādavihāraṃ āgamma yaṃ taṃ bhagavatā lokavajjasañciccānatikkamanaṃ sandhāya vuttaṃ ‘‘yaṃ mayā sāvakānaṃ sikkhāpadaṃ paññattaṃ, taṃ mama sāvakā jīvitahetupi nātikkamantī’’ti (cūḷava. 385; a. ni. 8.19; udā. 45), taṃ ṭhapetvā aññaṃ kuṭikārasahaseyyādiṃ vā paṇṇattivajjavītikkamasaṅkhātaṃ buddhapaṭikuṭṭhaṃ kāyena pāpakammaṃ karoti, padasodhammauttarichappañcavācādhammadesanāsamphappalāpapharusavacanādiṃ vā vācāya, uda cetasā vā katthaci lobhadosuppādanajātarūpādisādiyanaṃ cīvarādiparibhogesu apaccavekkhaṇādiṃ vā pāpakammaṃ karoti. Abhabbo so tassa paṭicchadāya, na so taṃ ‘‘idaṃ akappiyamakaraṇīya’’nti jānitvā muhuttampi paṭicchādeti, taṅkhaṇaññeva pana satthari vā viññūsu vā sabrahmacārīsu āvi katvā
yathādhammaṃ paṭikaroti, ‘‘na puna karissāmī’’ti evaṃ saṃvaritabbaṃ vā saṃvarati. Kasmā? Yasmā abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā, evarūpaṃ pāpakammaṃ katvā tassa paṭicchādāya
diṭṭhanibbānapadassa dassanasampannassa puggalassa abhabbatā vuttāti attho.

 

その意味〔とはこうである〕。たとえ彼が知見を具えた者であっても、念を失うことによって、放逸に住するので、それゆえに、世尊は、世間の罪を故意に犯すことに関して、〔このように〕説かれている、「私が制定した声聞たちの学処を、私の声聞たちは命を因としてさえ、犯すことはない。」と。これを除いて、その他の、小屋の作主との同宿などの、制定された罪を犯すことと称されるもの、仏が非難する所のものである「悪しき行いを、身体によって為す」。

一言一句の法や5か6を超える言葉の法の説示について、綺語、粗悪語などの「言葉によって」〔彼は悪しき行いを為す〕。「あるいは、心によって」何処であれ、貪や瞋が生じることによって黄金などを受領すること、法衣などの受用物において観察せざることなど、悪しき行いを為す。「彼はそれを隠すことはできない」〔とは〕、彼はそれを「これは適当ではない、為すべきではない」と知って、須臾の間でさえ隠すことなく、その刹那に他者の所で、〔すなわち〕師匠の所で、あるいは識者たちの所で、あるいは修行仲間たちの所で、〔罪を〕明らかにして、如法に懺悔する。「〔このようなことは〕二度としません」と、このように彼は防護すべきことを防護する。何故か?それは、「〔涅槃の〕境地を見た者は〔罪を隠すことが〕できないと説かれている」からである。これと同様に、悪しき行いを為してそれを隠すことは、涅槃の境地を見、知見を具足した補特伽羅にとって不可能であると説かれている、という意味である。